死を通じて見つめる人生の意味 ~イワンイリッチの死

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イワン・イリッチの死

トルストイ

 

生まれたら、必ず死ぬ。
自分自身もこの世に生を受けた以上、必ず死を迎える。
頭ではわかっているが、実際に自分のことと受け止めることは難しい。

 

 イワン・イリッチは帝政ロシアの官吏。

若いうちは、ある地方の県知事の秘書官のような地位について才能を発揮し、その後、裁判官に転身。最終的には中央裁判所判事という地位にたどり着く。

公務員というよりは、高級官僚といったほうがしっくりくるだろう。

 人柄は以下のように描かれている。

つまり才能に富んでいるとともに、快活で人がよく、おまけに社交的な人間であったが、しかし、己の義務と信ずるところは、厳格に実行していた。彼が自分の義務と信じていたのは、とりもなおさず、最高の地位を占めている人々の所信なのであった。(19ページ)

 

結婚もし、子宝にも恵まれた。

しかし、結婚生活は夫婦円満といえるようなものではなかった。

新婚のころは良かったが、妻は次第に何かにつけて彼を罵るようになった。

家庭での居心地が悪くなればなるほど、イワン・イリッチは仕事に没頭する。

 

イワン・イリッチが追い求めていたのは、官界での栄達と快適な私的生活だった。

夫婦仲はいまいちだったが、それが崩壊しないように処する術は身につけていた。仕事は手堅く、見事な処世術で栄達を勝ち取り、交友の範囲も立派で、不自由のない生活を手に入れていた。

社会的にはいわゆる成功者といっていいだろうし、本人もそれに満足していた。

 

しかし、ふとしたきっかけで不治の病に侵され肉体的な痛みに苦しむ。
そのなかで、自分の人生が全て虚偽だったのではなかったかと疑い、精神的にも苦しんでいく。

妻や娘、同僚や友人たちとの関係がいかに空虚なものであったか。

治る見込みがないのは明らかなのに、養生すれば良くなるという周囲の嘘。それに合わせて行動してしまう自分自身の嘘。

 

 世間の目から見ると、自分は山を登っていた。ところが、ちょうどそれと同じ程度に、生命が自分の足もとからのがれていたのだ……こうしていよいよ終わりがきたーもう死ぬばかりだ!

 それでは、いったいどうしたというのか? なんのためだろう? そんな事があるはずない! 人生がこんなに無意味で、こんなに穢らわしいものだなんて、そんな事のあろうはずはない! よし人生が真実これほど穢らわしい、無意味なものであるにせよ、いったいなぜ死ななければならないのだ? なぜ苦しみながら死ななければならないのだ? なにか間違ったところがあるに相違ない。(89ページ)

 

 勤務も、生活の営みも、家庭も、社交や勤務上の興味もーすべて間違っていたかもしれない。(中略)

 「もしそうだとすれば」と彼はひとりごちた。「自分に与えられたすべてのものを台なしにしたうえ、回復の見込みがないという意識をもちながら、この世を去ろうとしているのだったら、その時はどうしたものだ?」彼はあおむけになって、すっかり新しい目で自分の全生涯を見直しはじめた。(96ページ)

 

そして、イワン・イリッチは死ぬ2時間前に「本当のこと」はなにか自問をはじめる。


主人公が苦しみ、悶えて死んでいく描写は、凄まじい。
トルストイは一度死んだことがあるのかと思うほどだ。

 


冒頭でも書いたように、死を自分のこととして受け止めるのは難しい。
いつか死ぬものだと思ってはいても、いつの間にか死がきて、いつの間にか
終わっているというような感覚で捉えている自分がいる。
事件や事故など、死について日常的に感じる感覚は、ある意味劇的
一瞬で終わるものが多い。
あるいは、告別式に参列し、悲しんでいても、どこか他人事の自分がいる。

しかし、この小説を読むと、死はそんな簡単に過ぎていくものではないだろう
ということを実感させられる。
程度の差はあれ、死は徐々に迫り、苦しみをもたらすはずである。
そのとき自分はどのように死に向き合えるかである。

死を通じて人生の意味を見つめなおすきっかけになる小説だと思う。

物語の冒頭は、イワンイリッチの死を知った同僚の反応や告別式のシーンから始まるが、物語の最後まで読んだ後にこの部分をもう一度読むのがおすすめ。
死が他人事になっていることをより実感できる。

102ページと短いが、濃密な読書体験となる一冊だ。
 

 

※ この小説は、以前記事にした、黒澤明の「生きる」にもヒントを与えたといわれる。2つの作品を対比するのも面白い。

 

  

イワン・イリッチの死 (岩波文庫)

イワン・イリッチの死 (岩波文庫)

 

 

 

 

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