アドラー心理学の概要その4。
その1では、人は誰もが同じ世界に生きているのではなく、自分が意味づけした世界に生きていること、過去の出来事で現在の状況をすべて説明することはできず、そこには隠された目的があることなどを書いた。
その2の内容は、人間を動かす原動力となっている「劣等感」と「優越性の追求」、そしてそれが行き過ぎた場合に「劣等コンプレックス」や「優越コンプレックス」により起きる問題、克服するためには、他者へ関心を向ける、他者への貢献に関するものだった。
その3では、すべての悩みは対人関係にあるが、他者を敵だと考えがちな人は、自己中心性や承認欲求が強すぎること、他者に関心を持ち、最終的に誰が責任を引き受けるか課題を分離することが必要であるという話だった。
対人関係の最終的な目標
前回、課題の分離については、対人関係の最終的な目標ではないと書いたが、ゴールとなるのが、「共同体感覚」である。アドラー心理学のカギとなるものだ。
人は誰でも幸福になることができる。そのために必要なのが共同体感覚だ。
われわれのまわりには他者がいる。そしてわれわれは他者と結びついて生きている。人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することはできない。もしも一人で生き、問題に一人で対処しようとすれば、滅びてしまうだろう。自分自身の生を続けることもできないし、人類の生も続けることはできないだろう。そこで、人は、弱さ、欠点、限界のために、いつも他者と結びついているのである。自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である。
(第一章 人生の意味「人生の三つの課題」)
では、具体的に共同体感覚における共同体とはどのようなものなのか。
(共同体感覚における共同体とは)さしあたって自分が所属する家族、学校、職場、社会、国家、人類というすべてであり、過去、現在、未来のすべての人類、さらには生きているもの、生きていないものも含めた、この宇宙全体を指している。
なんとも壮大な話になっていて、一般的な心理学というものからはかけ離れたものに感じるだろう。
実際にアドラーがこの概念を使い始めたとき、心理学に科学ではないものを持ち込んでいるとして批判されたという。
ただし、アドラーはこの共同体は「到達できない理想」であるとも言っている。
共同体「感覚」とは
壮大過ぎて戸惑うところだが、共同体感覚の「共同体」は一応そのようなものとして、その次に「感覚」とはどのようなものか。
アドラーは、英語の著作の中で(母語はドイツ語)、共同体感覚を「social interest」と翻訳した。「他者への関心」ということだ。
「自分への関心(執着)」(self interest)を「他者への関心」(social interest)に切り替える。他者への関心=共同体感覚を持っている人は、他者に貢献し、貢献感を持つことができるとした。それが幸福につながるというのである。
共同体感覚を持つために必要なことは三つある。
自己受容
まず一つ目は「自己受容」である。
ありのままの自分を受け入れる。いいところも、悪いところも。
まずはそのまま、ありのままがスタート地点である。
自分を受け入れるためには、「自分は特別によくなくても、悪くなくてもよい」と考えることがポイントだ。
他者信頼
二つ目は「他者信頼」。
他者を無条件に信頼すること。条件をつけないこと。
人生では、信頼していた相手に裏切られたり、傷つけられたりすることもある。
しかし、それを恐れて対人関係のなかに入っていかなければ、誰とも深い関係に入っていくことができず、幸せになることはできない。
他者貢献
三つ目は「他者貢献(感)」である。
自分が役に立てている、貢献していると感じられるときに、そういう自分に価値があると思え、自分を受け入れることができる。
ここで重要なのは、他者へ貢献していると感じられるということである。
行動レベルで貢献しているということではない。行動レベルで考えてしまうと、赤ちゃんや寝たきりの老人は貢献できていないことになってしまう。
あくまでも存在レベルで考える。
赤ちゃんは何もできないが、成長していく姿を見るだけで、親は嬉しいのであり、他者へ貢献しているといえる。
寝たきりの親が生きていてくれることで、家族は嬉しく思うのであり、これも他者へ貢献しているといえる。
自分についても、生きていることで他者に喜びを与え、貢献できていると感じることが必要だ。
以上の三つは円環構造になる。
他者へ貢献していると感じられれば、そんな自分に価値があると思える。自分に価値があると思えれば、自分を受け入れることができる。貢献感を持つことができるためには、他者を敵ではなく、仲間として信頼していることが必要だ。
図示すると以下のようになる。
そして、これら三つを実践していくためには、 「勇気」が必要となる。
ありのままの自分を受け入れる「勇気」、傷つくことを恐れず、他者を仲間と信じ、貢献していく「勇気」だ。
勇気づけ
このような勇気を持てる援助をすることを、アドラー心理学では「勇気づけ」という。
勇気づけという言葉は、他者に何かをさせようと働きかけることを連想させるが、あくまでも援助である。勇気は本人が、自分自身で持つしかない。
勇気づけの基本となる言葉は、「ありがとう」だ。
感謝の言葉をかけられれば、共同体へ貢献していることを感じることができる。
以下、勇気づけのポイントや方法を少し紹介する(「アドラー心理学を語る4」野田俊作より)。
貢献に注目する
「君は本当に有能だ」「えらい、よくやった」、これは相手の能力や勝ち負けということに注目している。自己への関心、執着を育てがちで、今回はうまくいっても、次に失敗したときの挫折感は大きくなる。
そうではなく、共同体への貢献に注目する。
「君のおかげでとても助かったよ」と声をかけるのが、勇気づけに繋がる。
過程を重視する
学校でいい成績をとってきた子どもに「いい成績だね、よかったよ。嬉しい」と言うことは、結果を重視したものになりがちだ。いい成績を取れさえすれば手段は何でもいいと思ってしまうかもしれないし、悪い成績をとると勇気をくじかれる。
ここでは、プロセス、過程を重視し、「努力したんだね、すごく頑張ったね」と声をかけたい。
成果を指摘する
励ますつもりで出来ていない部分を指摘することがあるが、それも勇気をくじくことがある。「全体としてはよくできているけれども、この部分がだめだな」ではなく、「ここの部分はよくできたように思う」というような言い方をしたい。
成長を重視する
「ほかの子よりもよくできているね」ではなく、「この前よりも上達しているね」と言いたい。
他者と比較するのではなく、本人の成長に注目する。
相手に判断を委ねる
「ここはよくないよ、こうしたほうがいいよ」ではなく、「あなた自身はどこが気に入っているかな、どういうふうにすればいいと思っているかな」。
善悪をこちら側で判断して押し付けるのではなく、相手の主体的な判断を育てる。
「意見言葉」を使う
主観的な意見に過ぎないものを事実として言うことは、しばしば相手をくじけさせる。
「それは間違っている」「それは正しい」ではなく、「うん、そのやり方は正しいと思うな」「そういう言い方には賛成できないな」と、自分の主観的な判断であることを全面に出したほうがいい。
共同体感覚の広がり
人は誰でも幸福になることができる、そのために必要なのが共同体感覚であるとして、共同体感覚の意味やそのために必要な勇気づけについて書いてきた。
話を少し戻して、共同体感覚が過去、現在、未来にまたがり、そして人類以外のものにまで広がることをどう考えるか。
寝たきりの病人について、存在そのもので家族が嬉しく思うことで貢献していると書いたが、そもそも現在の行動や存在だけが、貢献であると考える必要はないだろう。
例えば、その病人の方が、元気で健康な頃、自分の子どもや職場の後輩に自分自身の経験や知識、そして想いを伝えていたとする。それは「愛」と言ってもいいかもしれないが、子どもや後輩のなかにそれは受け継がれていき、次の世代に伝わっていく。過去の行為が、現在も息づき、現役世代が受け継ぎながら貢献している。これは、現役世代だけではなく、病人の方の現在の貢献とも言えるのではないか。
病人の方の過去の行為や存在が、現在の人々、そして将来の世代に貢献すると考えることができるのである。
そもそも私たちが生きているこの社会は、過去の数多の先人たちの努力により成り立っているはずだ。
また、些細なことだが、買い物をするときにエコバックを持参することは、誰のためなのだろうか。自分や家族だけのためではないし、社会のためと言ってしまえば、そのような感じもするが、環境のことを考えると、人類だけのためではないだろう。
理想だけが現実を変える力を持つ
アドラーは第一次世界大戦に従軍した悲惨な経験から、どうすれば戦争のない世の中になるかと考えた。
そのなかで共同体感覚の概念が生まれ、人々が自分だけに関心を持つのではなく、他者に関心を持ち、他者に貢献しようと思えることが必要だと説いた。
そして、そのためには教育が重要であるとして、子どもたちの教育に熱心に取り組んだが、すべての人間は対等であり、横の関係であることが重要であるとした。親と子、教師と生徒、上司と部下、すべて横の関係であり、人間の価値に上下はなく、誰もが同じ権利を持っているので、誰かが誰かを手段として扱うことはできないのである。
ほめることや叱ることに否定的なのは、それが自然と縦の関係になりやすく、他者をコントロールしたり、虐げることに繋がるからであった。
最後に、100分de名著「人生の意味の心理学」で岸見氏は以下のように述べている。
アドラーのいう「共同体感覚」は理想であり、すべての人が他者を仲間と見なして、互いに協力しあう世界が、そう簡単に出現するとは思えません。しかし、実現していないから理想なのであって、理想だけがこの現実を変える力を持っているのです。現実はこうなのだと現実を追認するだけでは世界は変わりません。今後、アドラーの思想に触れて、対等であるとは何なのかと考える人が増えていけば、世界はいい方向に向かっていくはずだと私は考えています。そのためには、自分は日々の生活の中で何ができるかを考えていかなければなりません。
あと一回、補足的なものを書くかな…(未定)