人それぞれ一歩ずつ前へ進む 「劣等感」と「優越性の追求」 ~アドラー心理学 その2
前回は、「意味づけを変えれば、過去、今、未来が変わる」と題して、目的論やライフスタイルについて紹介した。
今回は、人間を動かす原動力となっている「劣等感」と「優越性の追求」について書く。
優越性の追求は人間の普遍的な欲求
人は誰でも自分のためになることを追求して生きている。
この自分のためになること、今よりも優れた存在になりたいと思いながら生きていくことを、アドラーは「優越性の追求」と呼び、人間の普遍的な欲求であると考えた。
すべての人を動機づけ、われわれがわれわれの文化へなすあらゆる貢献の源泉は、優越性の追求である。人間の生活の全体は、この活動の太い線に沿って、即ち、下から上へ、マイナスからプラスへ、敗北から勝利へと進行する。
(『人生の意味の心理学』第三章 劣等コンプレックスと優越コンプレックス「優越性の目標」)
優越性の追求と対をなすのが「劣等感」である。
アドラー心理学では、優越性の追求と劣等感は誰もが持っていて、どちらも努力と成長への刺激になると考える。
一般に、劣等感というと、他者との比較で考えがちだが、ここでいう劣等感はそうではなく、「理想の自分と現実の自分との比較」から生じるものである。
アドラーはこの劣等感こそが、人類のあらゆる進歩の原動力になっていると考えた。
見かけの因果律と劣等コンプレックス
劣等感や優越性の追求は、人間や世界にとって有用だが、一方でアドラーは、強すぎる劣等感や優越性の追求を、「劣等コンプレックス」、「優越コンプレックス」と呼び、人生に有用でないとしている。
まず、劣等コンプレックスは、劣等感を「言い訳」に使う状態だ。
「AであるからBができない」、「AでないからBができない」という論理を日常で多用する。
トラウマがあって、チャレンジしようとすると足がすくむ、お腹が痛いので学校に行けない、背が低いから、収入が低いからもてない…
これらは、実際には因果関係はない。Aだから必ずBになるかといえば、そうではないからだ。これをアドラーは「見かけの因果律」と呼んだ。
劣等コンプレックスは、見かけの因果律を立てて、人生の課題から逃げようとするのだ。
本来、劣等感は建設的に補償するしかない。
自分が理想とする状況に達していないと思った場合は、もっと勉強しよう、もっと努力しようと考えて前に進むしかないのだ。
優越コンプレックス
優越コンプレックスは劣等コンプレックスと対になる。
自分を実際よりも優れているように見せようとするのが、優越コンプレックスの特徴だ。
学歴や肩書きを誇示する、高価なブランド品で身を飾る、過去の栄光の話ばかりする、知り合いの手柄を自分の手柄のように話す人は、優越コンプレックスがあると考えていいだろう。
自分が優れていることを強調し、他者に誇示する人にとっては、実際に優れているかどうかは問題でなくなってくる。ただ「他者よりも優れていると見えること」が重要になり、絶えず他者の評価を気にかけ、他者からの期待に応えようとする。
また、優越コンプレックスを持つ人のなかには、自分を誇示するのではなく、他者の価値を貶めることで、相対的に自分を上に置こうとする人もいる。
例えば、パワハラをしたり、理不尽に部下を叱りつける上司がそれにあたる。
本来的な仕事の部分では実は自信がないので、叱りつけて優位に立とうとするのだ。
アドラーは、こういった他者の価値を落として自分が優位に立とうとすることを「価値低減傾向」と呼んでいる。
いじめや差別も価値低減傾向がある人が引き起こすといっていいだろう。
いじめる側、差別する側の人は、強い劣等感を持っていて、自分よりも弱い人をいじめたり、差別することで相対的に自分を上に位置づけようとする。
したがって、「いじめは人間として恥ずかしい行為、絶対にやめよう」とだけ言っても解決しない。いじめる側、差別する側の人に、自分に価値があると思えるようになる援助が必要になってくるのだ。
ちなみに、優越コンプレックスを持った上司にあたったらどうするか。
「萎縮せず、普通に接すること」だ(容易ではないが)。
仕事の場面では、誰が言っているかではなく、何が言われているかに注目すればいい。
優越コンプレックスを持っている人は、いわば常につま先立ちで背伸びをしているようなもの。実は自分自身もつらい。
だから部下が普通に接すると、その人の前では背伸びをする必要がないと思うようになり、行動が変化する可能性がある。
優越性の追求をどのように考えるか
劣等コンプレックスや優越コンプレックスについて、自分自身にも思い当たる方が多いのではないだろうか。私自身、見かけの因果律なんて、頻繁に使っている気すらする。
私たちはなぜ、気づかないうちに劣等コンプレックスや優越コンプレックスに陥ってしまうのか。何を目的としてそうなるのか。
それは「優越性の追求」の解釈にある。
自分では正しい優越性の追求を行っていると思っても、実は間違っていることが多い。
陥りやすい間違いの一つは、優越性の追求を「競争」だと思ってしまうことだ。
私たちは、競争社会に生きているので、ともすれば優越性の追求を他者よりも優れていることだと考えがちである。
勉強でいえば、本来は知らないことを学ぶことだから、それだけで大きな喜びに繋がるはずだが、勉強を他者との競争ととらえてしまうと、大学に進学したり、就職が決まってしまうと勉強をしなくなってしまう。また、ただ勝てばいいという考えを持つと、勝つためには手段を選ばず、不正行為をするかもしれないし、勝機がなければ挑戦しなくなる。
健全な優越性の追求とは、先の引用の言葉でいうと、自分にとっての「マイナス」から「プラス」を目指して努力することなのである。
自分を基準として、真の優越性の追求をする
健全な劣等感、健全な優越性の追求は、あくまでも「自分にとって」「理想の自分と比較して」であり、他者との比較でなされるものではない。
平らな地平をみんなが先へと進もうとしている場面をイメージする。
自分より前を歩いている人もいれば、後ろを歩いている人もいる。しかし、競争ではないので、前の人を追い抜こうとしたり、後ろの人に追い抜かれたりしないようにと考える必要はない。自分がただ前を向いて確実に一歩前に足を運ぼうと意識していればそれでいいのだ。あくまでも自分が基準である。
アドラーは、優越性の追求について以下のように言っている。
しかし、真に人生の課題に直面し、それを克服できる唯一の人は、その(優越性の)追求において、他のすべての人を豊かにするという傾向を見せる人、他の人も利するような仕方で前進する人である。
(第三章 劣等コンプレックスと優越コンプレックス「優越性の目標」)
「人生の課題に直面し、それを克服」することが優越性の追求である。
そして、ただ自分のためだけに優越性を追求するのではなく、「他のすべての人を豊かにする」、「他の人も利する」仕方で前進するのだ。
勉強の話でいえば、自分の興味を満たすためだけにするのではなく、自分の得た知識を他者のために役立てる仕方で勉強するということになる。
良い大学に入りたい、いい点数をとって認められたい、競争に勝ちたいとだけ思って勉強をするのと、社会の役に立ちたい、困っている人を助けたいと思って勉強するのでは、その原動力に大きな差が出るはずだ。
劣等コンプレックス、優越コンプレックスのある人の問題は、自分のことだけを考えて生きているというところにある。
自分を大きく見せようとすることは、一見他者を意識しているようだが、他者に自分がどう見られているかという点で、自分のことしか考えていない。
自分だけへの関心を、他者へ向ける。そして、他者を競争すべき「敵」ではなく、協力して生きる「仲間」と思えるようになれば、誰かの役に立ちたいという気持ちが生まれてくる。
他者を仲間だと意識することを、アドラーは「共同体感覚」と呼んだが、このことについては、その4あたりで記事にしようと思う。
次回、その3は「人間関係」を予定。
アドラーは、「すべての悩みは対人関係の悩みである」と言ったが、その意味と解決法などについて書いてみるつもり。
意味づけを変えれば、過去、今、未来が変わる ~アドラー心理学 その1 - ◎晴輪雨読☆
悩みの源泉は対人関係にあるが、生きる喜びや幸せもまた、対人関係にある ~アドラー心理学 その3 - ◎晴輪雨読☆