文明は人間を幸福にしたのか ~『サピエンス全史』

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サピエンス全史

ユヴァル・ノア・ハラリ

 柴田裕之 訳

 

2014年に出版、2016年に日本語訳が出て、世界的ベストセラーになっている本書。

内容としては、「認知革命」、「農業革命」、「科学革命」が3本の柱となっている。

全体的に、これまでの認識を覆させられる内容で読み応えがあったが、今回の記事では、著者がこれら3つの革命について述べた後に投げかけている問い、「文明は人間を幸福にしたのか」について、紹介する。

 

 

 幸せの要因とは

 過去500年間には驚くべき革命が相次ぎ、人類は超人間的な力と実質的に無限のエネルギーを手に入れた。その結果、社会秩序は根底から変容したが、私たちは以前より幸せになったのだろうか

これまで歴史学者はこうした問いを投げかけることはあまりなかった。

よくある見方としては、人類の能力は歴史を通じて増大しており、悲惨な状況を改善したり、願望を満たしたりするために能力を活用するのだから、私たちは祖先より幸せに違いないというものだ。

これに対し、正反対の立場もある。

進化は、私たちの心身を狩猟採取生活に適合するように形作った。それにもかかわらず、まずは農業へ、次いで工業へ移行したせいで、人間は本来の性向や能力を発揮できず、そのために最も深い渇望をみたすこともできない不自然な生活を送らざるをえなくなっているというものである。

 さらに、これらを微妙に修正した立場もある。

科学革命までは、持てる力と幸福に明確な相関関係はなかったが、ここ数世紀の間に、近代医療の発展、暴力の激減や国家間の戦争の事実上の消滅、大規模な飢饉がほぼ一掃されたことから、幸福度は増したというものである。 

しかし、上記のいずれの考え方も単純化しすぎている。

より豊かで健康になれば、人々は幸せになるという、物質的要因の産物として幸福を論じてしまっているのだ。 

物質的な条件と同じように社会的、倫理的、精神的要因も、幸福に重大な影響を与えるはずだ。

 

幸福度をどのように測るか

では、物質的要因以外の幸福度をどのように測ればいいか。

この数十年、心理学者と生物学者は、何が人々を真に幸福にするかを科学的に解明するという困難な課題に取り組んでいる。

まず、何を計測するかだが、ここでは、幸福とは、たった今感じている快感であれ、自分の人生のあり方に対する長期にわたる満足感であれ、人が心の中で感じているものを意味する。

 「今の自分に満足している」「人生を送ることには大きな価値がある」「将来について楽観的だ」などに、どの程度賛同できるかを10段階で答えるよう被験者に求めるものだ。

このような調査方法で、本当に幸福が測れるかは何ともいえないが、まず、結論の一つは以下のようなものだ。

富は実際に幸福をもたらすが、それは一定の水準までで、そこを超えるとほとんど意味を持たなくなる

普通のサラリーマンがロト7に当選するのと、グローバルな大手自動車メーカーのCEOがロト7に当選するのでは、その人に与える影響が全くことなるのは容易に想像できるだろう。

一方、家族やコミュニティは、富や健康よりも幸福感に大きな影響を及ぼすようだ。

貧しい上に病に臥せっていても、愛情深い配偶者や家族などに恵まれた人は、貧しさが極度であったり、病が悪化する一方だったり、痛みが強かったりするのでなければ、孤独な億万長者より幸せだろう。

 この二つの結論から考えると、過去二世紀における物質的要因による状況改善は、家族やコミュニティの崩壊で相殺されている可能性さえある。

 

主観的な期待との関係

もっとも、この二つの結論より重要な発見がある。

それは、幸福は客観的な条件、富、健康、家族やコミュニティにさえも、それほど左右されず、むしろ、客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まるということだ。

人は、牛に引かせる荷車が欲しいと思っていて、それが手に入れば満足するが、フェラーリの新車が欲しかったのに、フィアットの中古車しか手に入らなかったら、自分は惨めだと感じる。

この期待が決定的に重要であるという発見は、幸福の歴史を理解するうえで広範な意味合いを持つ。

私たち現代人は、鎮静剤や鎮痛剤を必要に応じて自由に使えるものの、苦痛の軽減や快楽に対する期待があまりに膨らみ、不便さや不快感に対する耐性が弱いために、いつの時代の祖先よりも強い苦痛を感じているかもしれないのだ。

 

化学から見た幸福

ここまでは社会科学者たちの考える幸福だが、それに対し、生物学者の主張は衝撃的だ。

私たちの精神的世界は、進化の過程で形成された生化学的な仕組みによって支配されており、人間を幸せにするのは、体内に生じる快感であり、セロトニンドーパミンオキシトシンなどの生化学物質からなる複雑なシステムによって決定されるというのである。

宝くじに当たり、お金に反応して幸せを感じているのではなく、血流に乗って全身を駆け巡るさまざまなホルモンや電気信号に反応して幸せを感じているのだ。

すなわち、幸せ=快感ということである。

 

そして、人間の体内の生化学システムは、幸福(快感)の水準を比較的安定した状態に保つようプログラムされている。

例えるならば、酷暑になろうと吹雪がこようと室温を一定に保つ空調システムのようなものだ。室温は一時的に変化するかもしれないが、必ずもとの設定温度に戻る。

私たちは、結婚したり、新しい車を買ったり、住宅ローンを完済したら最高の気分が味わえるだろうと考えがちだが、そういったことでは、幸福度は増さないようだ。

ほんの束の間、生化学的状態が変動するだけで、体内のシステムはすぐに元の設定点に戻ってしまう。

 

また、設定温度は一人ひとり異なり、25℃の人がいれば、20℃の人もいる。

困難に見舞われても、比較的楽しそうにしている人もいれば、どれほど素晴らしい巡り合わせに恵まれても、いつも不機嫌な人もいる。これは、元々の設定なのだ。

 

こんな話を聞くと、とても偏った結論に聞こえてくるが、もちろん、生物学者も 心理学的要因や社会学的要因にも幸福に対する役割があることを認めている。

ここで重要なのは、幸福に対する生物学的なアプローチを認めると、歴史上のほとんどの出来事は私たちの幸福に何一つ影響してこなかったことになるということだ。

フランス革命を例にすれば、王を処刑し、農民たちに土地を分配し、人権を宣言し、貴族の特権を廃止しても、フランス人の生化学特性は変化しなかった。革命後に、フランス人のセロトニンの分泌量が増えたり、分泌時間が長くなったりはしなかったのだ。

 

人生の意義

幸せと快感は等しいという結論には当惑させられてしまうが、この定義に異議を唱える学者もいる。

ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの研究によれば、子育ては相当に不快な仕事であることが判明した。労働の大半は、おむつを替えたり、食器を洗ったり、かんしゃくをなだめたりすることが占めていて、苦役なのだ。

しかし、大多数の親は、子どもこそ自分の幸福の一番の源泉であると断言する。

これは何を意味するのか。

幸福とは不快な時間を快い時間が上回っていることではないのを立証しているのではないだろうか。幸せかどうかはむしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものと見なせるかどうかにかかっているということだ。

そして、この結論は近代を必ずしも高く評価しない。

中世の人々はたしかに悲惨な状況にあった。ところが、死後には永遠の至福が訪れると信じていたのならば、彼らは信仰を持たない現代人よりもずっと大きな意義と価値を、自らの人生に見出していたことになるのだ。

 

汝自身を知れ

幸福は快感と等しいという考え方、幸福が人生には意義があると感じることに基づくという考え方、両者には共通の前提がある。

それは、幸福とは、ある種の主観的感情であり、幸せの追求は特定の感情状態の追求になるということだ。

しかし、歴史上、宗教や哲学の多くは、幸福に対して異なる見解をとってきた。とくに興味深いのが仏教の立場だ。

 

仏教によれば、たいていの人は快い感情を幸福とし、不快な感情を苦痛と考えるという。そのため、多くの喜びを経験することを渇愛し、苦痛を避けるようになる。

だが、そこに問題がある。

私たちの感情は、海の波のように刻一刻と変化する、束の間の心の揺らぎにすぎない。5分前に喜びを感じていても、すぐに意気消沈してしまうこともある。 押し寄せては、ひいていくのだ。だから快い感情を得るためには、たえずそれを追い求めなければならない。

仏教によれば、苦しみの根源は苦痛や悲しみの感情ではない。苦しみの真の根源は、束の間の感情を果てしなく、空しく求め続けることなのだ。

この追求で、心が満たされることはない。喜びを経験しているときにさえ、心は満足できない。なぜなら心は、この感情がすぐに消えてしまうことを恐れると同時に、この感情が持続し、強まることを渇愛するからだ。

仏教で瞑想の修練を積むのは、この追求をやめ、苦しみから解放されるのが目的だ。

瞑想では、喜びや怒り、退屈、情欲など、あらゆる感情が現れては消えることを繰り返すが、特定の感情の追求をやめさえすれば、どんな感情もありのままに受け容れられるようになる。

そうして得られた安らぎはとても深い。

 

幸福が外部の条件とは無関係であるという点は、ブッダも現代の生物学も意見を同じくしている。

だが、ブッダの洞察で、より重要性が高く、深遠なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものだ。ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求もやめることだった。

 

仏教をはじめとする多くの伝統的な哲学や宗教では、幸せへのカギは真の自分を知る、自分が何者なのか、何であるのかを理解することだとされる。多くの人が、自分の感情や思考と自分自身を混同している。

「私は怒っている。これは私の怒りだ」と考える。

その結果、ある種の感情を避け、ある種の感情を追い求めることに人生を費やす。

感情は自分自身とは別のもので、特定の感情を執拗に追い求めても、不幸に囚われるだけであることに気づかない。

 

もしこれが事実ならば、幸福の歴史に関して私たちが理解していることのすべてが、じつは間違っている可能性もある。ひょっとすると、期待が満たされるかどうかや、快い感情を味わえるかどうかは、たいして重要ではないのかもしれない。最大の問題は、自分の真の姿を見抜けるかどうかだ。古代の狩猟採集民や中世の農民よりも、現代人のほうが真の自分を少しでもよく理解していることを示す証拠など存在するだろうか?(下巻 240ページ)

 

 

この議論について、著者は以下のように閉めくくっている。

 もっとも、学者たちが幸福の歴史を研究し始めたのは、ここ数年のことである。

幸福の歴史についての議論に終止符を打つのは時期尚早であり、異なる探求方法を多く見つけ出し、適切な問いを投げかけることが必要だ。

幸福の歴史について、何一つ言及してこなかったのは、人類の歴史理解にとって最大の欠落であるし、この欠落を埋める努力を始めるべきである。

 

 読み応え十分。歴史好き、哲学好きにはおススメ。