悩みの源泉は対人関係にあるが、生きる喜びや幸せもまた、対人関係にある ~アドラー心理学 その3

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前回は、人間を動かす原動力になっている「劣等感」や「優越性の追求」について書いた。これらがあるからこそ、人は今よりも優れた存在になろうと課題に立ち向かったり、努力したりする。しかし、それが強すぎると逆に課題から遠ざかろうとする。

前回の記事で、「課題」という言葉を何度か使ったが、アドラーは人生で直面する課題を「ライフタスク」といい、仕事のタスク、交友のタスク、愛のタスクがあるとした(最近はここに自己や、精神世界を加える考え方もある)。

このライフタスク、簡単にいうと、対人関係の課題といっていいと思う。

今回はその対人関係について。

 

 

すべての悩みは対人関係

アドラーは、「すべての悩みは対人関係の悩みである」と考えた。

もし、自分がこの宇宙で一人で生きているのであれば、そこに善悪はなく、言葉も不要である。自分の外見も気にならないはずだ。

しかし、誰か一人でも他者がいるなら、対人関係を考えなくてはならなくなる。

 

対人関係の問題は、他者を自分の行く手を遮る存在、「敵」と見なすことから生まれる。これは、親子関係、夫婦関係、友人関係、職場の対人関係すべてに言える。

教えたとおりにやってくれない、やってほしいことがあるが気づいてくれない、指示に従わない、いつも嫌なことを言われるから避けたい、こういった思いが積み重なると、次第に相手を「敵」と見なすようになってしまうのだ。

 

なぜそう思ってしまうのか。

その1で触れた目的論で考えると、「他者との関係に入っていきたくない」という目的があるからということになる。

「敵」のなかに入っていくと、摩擦が生まれ、嫌われたり、裏切られたりして傷つく可能性があるため、それを避けるのだ。

 

しかし、対人関係は悩みの源泉ではあるが、生きる喜びや幸せも、対人関係のなかにある

幸せになるには、対人関係を避けるのではなく、まず、敵だと思っている他者に対する意味づけを変える必要がある

 

「自分が世界の中心にいる」という誤り

他者を敵だと考える人の多くに共通しているのが、「自分が世界の中心にいる(いたい)」という意識を持っていることだ。

自分が世界の中心だと考えてしまう人は、子どもの頃に甘やかされて育った経験を持っていることが多いが、アドラーは甘やかしの危険について次のようにいっている。

 

 甘やかされた子どもは、自分の願いが法律になることを期待するように育てられる。(中略)その結果、自分が注目の中心でなかったり、他の人が彼[女]の感情に気を配ることを主な目的にしない時には、いつも大いに当惑することになる。

(第一章 人生の意味「子ども時代の経験」)

 

幼い頃に親に甘やかされ、何でも与えられて育つと、やがて自分がなんの努力をしなくても、他者から与えられることを当然と思い、他者が自分に何をしてくれるかにしか関心がない人間に成長してしまう。

そういう人間は、自分が望むことを人から与えられているうちは機嫌がいいが、そうでなくなると、(自分の意に沿った行動をさせるために)不機嫌になったり、他者に攻撃的になったりする。

 

承認欲求

自分が世界の中心であると考えて育った人は、ほめられたり、注目されてきたために、「承認欲求」が強くなりやすい。(訳者の岸見氏は承認欲求を持つようになるのは、賞罰教育による影響もあると考えている。)

(※個人的には、承認欲求は誰にでもあるが、強すぎることが問題だと思う。)

承認欲求が強すぎる人は、ほめられない(承認されない)とわかると、適切な行動をしなかったり、ほめられる(承認される)ために、不正行為を行ったりする。

 また、怒られそうならやるし、怒られないならやらないということにもなる。

承認されなくても何かをしなければならない場面は人生の中に多々ある。

岸見氏によれば、介護は承認欲求がある(強い)人にはつらいものになるという。

なぜなら、親から「ありがとう」という言葉をかけられることは期待できないからだ。

 

仕事では、裏方や人が嫌がることをしなければならない仕事、職位が上がれば上がるほど、 認められることは少ないだろう(よいしょは別として)。

そんな仕事をしている人が、褒められたり、認められることを求めるようになると、仕事は苦役になってしまう。

 

脱却する方法

では、承認欲求や世界の中心に自分がいるという意識から脱却するためにはどうしたらいいか。

まず一つ目は、他者に関心を持つことだ。

自分にしか関心がない人は、他者の発言や行動を見ても、もしも自分だったらどうするだろうかという自分目線でものを考えてしまうので、多くの場合、正しく他者を理解することはできない。

(限界はあるが)「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」よう努めなければならないとアドラーはいっている。

 

次に、他者は自分の期待を満たすために生きているのではないことを知ることだ。

他者からよく思われないことを怖れて、他者の期待を満たそうとする人は、自分の人生ではなく、他者の望む人生を歩んでしまうことになる。自分の人生を生きるのであれば、他者との摩擦は必ず起こるし、嫌われることもあるだろう。

自分の人生を生きる決心をすれば、他者から承認される必要はなくなる

同じ理由で、自分が他者の期待を満たすために生きているのでないとすれば、同じ権利を他者にも認めなければならない。

このことを理解できれば、他者が自分の思うようなことをしてくれなくても、不愉快に思ったり、憤りを感じることは少なくなるだろう。

 

「課題の分離」

三つ目は「課題の分離」だ。

あることの最終的な結末が誰に降りかかるか、その責任を最終的に誰が引き受けなければならないかを考えるのが課題の分離である。

 

子どもが勉強をしないことに悩む親は多いが、勉強をすることは誰の課題か。

勉強をしなくて困るのは誰か、その責任を引き受けるのは誰か。

子どもである。

勉強は親ではなく、子どもの課題だ。

 

対人関係のトラブルは、他者の課題に踏み込んだり、踏み込まれることによって起こる。

親が「勉強しなさい」ということは、子どもの課題に踏み込んでいることになるのだ。

だから、たいていの場合は、反発して勉強しない(やっても、やったふりだったり、気が入っていない)。

 

親ができるのは、子どもが勉強を自分の課題と認識し、取り組む決意をしたときに、その環境を整える(援助する)ことだ。

また、前回の記事の「優越性の追求」のなかで少し触れたが、勉強は自分だけのためにするのではなく、他者に貢献することに繋がること、他者に貢献することの素晴らしさを教えていくことも親ができることだろう。

しかし、勉強するかしないかは、あくまで子どもの課題である。

子どもは、親の期待を満たすために生きているわけではないのだ。

 

ときには課題を共有することも必要

課題の分離というと、自分の課題は自分で解決するしかない、というとても厳しい話に聞こえる。もちろん厳しい面もあるが、必ずしもそれがすべてではない。

 

そもそも、課題を分離することは、対人関係の最終の目標ではない

現状は、糸がもつれたような状態になっているので、何が誰の課題かを見極めたうえで、自分だけでは解決できない問題は他者に協力を求めていい。

これをアドラー心理学では「共同の課題にする」という。

 

子どもの勉強でいえば、最近の成績のことについて話したいという。

話の内容を予見し、身構えるかもしれないが、共同の課題にするためには、手続きを踏むことが必要だ。

また、このような話がしやすくなるよう、日ごろから関係を良くしておくことも大事になる。

ここで、共同の課題にしようといいながら、自分の思うように子どもを操作、支配しようとしていないかには注意を要する。

 

 

「課題を分離することは、対人関係の最終の目標ではない」と書いたが、では最終の目標は何か。ここで、「共同体感覚」という最も重要な概念がでてくる。

次回は共同体感覚、勇気づけなどについて書く予定。

 

 

意味づけを変えれば、過去、今、未来が変わる ~アドラー心理学 その1 - ◎晴輪雨読☆

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人それぞれ一歩ずつ前へ進む 「劣等感」と「優越性の追求」 ~アドラー心理学 その2 - ◎晴輪雨読☆

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人は誰でも幸福になることができる。そのために必要なのが共同体感覚。 ~アドラー心理学 その4 - ◎晴輪雨読☆

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