意味づけを変えれば、過去、今、未来が変わる ~アドラー心理学 その1
前回の性格に関する記事を受けて、勇気づけに関する記事を予定していたが、ここで一旦、自分自身の思考の整理の意味も含めて、4~5回に分けてアドラー心理学の概要をまとめてみることにした。
Eテレ「100分de名著」で過去に放送された「人生の意味の心理学」の構成を参考に書いてみる。
- 個人心理学
- フロイトとの決別
- 意味づけは人それぞれ
- 原因や理由は後付けだったりする
- 本当は変わりたくない?
- ライフスタイルを意識化する
- ライフスタイルの選択に影響を及ぼすもの
- 対人関係に入っていく「勇気」を持つ
個人心理学
日本では創始者の名前からそのまま「アドラー心理学」と呼んでいるが、アドラー自身は「個人心理学(individual psychology)」と呼んだ。
「個人(individual)」 という言葉は、これ以上分割できないものという意味を含んでいる。
アドラーは人間を理性と感情、意識と無意識、身体と心というふうに二元論的に捉えることに反対した。したがって、個人心理学は、「分割できない全体としての人間を考察する心理学」という意味になる。
フロイトとの決別
大学を卒業したあと、歯科医、内科医として働いているうちに、フロイトの『夢診断』を読んだのをきっかけに精神医学に興味を持つようになる。
その後、フロイトのセミナーに招かれ、その発展形である「ウィーン精神分析協会」の会長を務めるようになるが、フロイトの学説との相違から退会することになる。
フロイトが「リビドー(性的衝動)」がパーソナリティーの基礎であると考えたのに対し、アドラーは劣等感をリビドーに代わるものとして持ち出し、劣等感が人生に立ち向かう力を生み出すとした。また、アドラーの目的論も、心の苦しみの原因を過去と客観的な事実に見るフロイトの理論とは全く異なったものだったのだ。
さらに、第一次世界大戦の経験によって、両者は全く逆の発想に到達する。
フロイトが、「なぜ人間は闘うのか」という視点から、「人間には攻撃欲求がある」と結論づけたのに対し、アドラーは、「闘わないためには何をすべきか」という視点から「人間は仲間である」という考えに到達した。これがアドラー心理学のカギ概念である「共同体感覚」である。
「人間には攻撃欲求があるから、戦争をする(のは仕方ない)」ではなく、「戦争をしないためにこれからどうするか」と考えたのである。
意味づけは人それぞれ
「分割できない」、「劣等感」、「人間は仲間(共同体感覚)」など出てきたが、詳しくは次回以降に説明するとして、まず、アドラー心理学の特徴としてひとつ挙げてみると、人は誰もが同じ世界に生きているのではなく、自分が「意味づけ」した世界に生きていると考えることだ。
子どもの頃に不幸な経験をしたとして、人によって捉え方は異なる。
- 「自分が不幸な経験をしたことで、それを回避する方法を学んだから、自分の子どもは同じ経験をしないように努力しよう」
- 「自分は子どものころに苦しんだが、乗り越えた。自分の子どもも苦しさを乗り越えるべきだ」
- 「自分は不幸な子ども時代を送ったから、何をしても許されるべきだ」
2番目の考え方は、悪い意味でのいわゆる体育会系、古臭い部活のイメージとも重なる。不合理を力で正当化する考え方ともいえる。
いずれにせよ、不幸な経験にどのような意味づけをするかによって、これからが変わる(さらには、今や過去も)。
いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショックーいわゆるトラウマーに苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。(人生の意味の心理学 21ページ)
過去の経験、トラウマがあって、今の結果があると考える「原因論」に立ってしまうと、すべては過去の出来事や環境によって決定されてしまうということになり、現状は変えられないことになる。
それに対し、アドラーの「目的論」は、私たちが過去の経験に「(目的に応じて)どのような意味を与えるか」によって自らの生を決定していると考える。
原因や理由は後付けだったりする
ある人に恋をする。
「この人が好きだ」と思うと、「なぜこの人を好きなのだろうか」と、好きになった理由を探した経験はないだろうか。
逆に、恋心が冷めた場合、優しいと思っていた人が優柔不断に見え、頼りがいのある人が支配的な人間に見え、几帳面できちんとした人が、神経質な人に見えることがあるだろう。
好きだと思えば、長所が見え、嫌いだと思えば、短所が見える。この場合、原因や理由は後付けである。
アドラーのいう「目的論」では、その人と関係を始めたいという「目的」があって、長所を見つけ、ある人と関係を続けたくないと思うことが、欠点を見つけるための「目的」となる。
人の行為は、原因ですべてを説明しつくせるものではなく、自由意志が必ずあると考えるのが「目的論」といえる。
本当は変わりたくない?
今回は「意味づけ」という言葉がキーワードになっているが、アドラーは、世界、人生、自分に対する意味づけを「ライフスタイル」と呼んだ。
- 自分のことを自分がどう見ているか(自己概念)
- 他者を含む世界の現状についてどう思っているのか(世界像)
- 自分および世界についてどんな理想を抱いているのか(自己理想)
この三つを包括した信念体系が「ライフスタイル」だ。
ライフスタイルは人それぞれ異なるのだが、アドラーは、五歳の終わりごろまでには自分のライフスタイルを採用すると言っている(訳者の岸見氏は十歳前後だと考えている)。
これは自分自身で選んだものなので、変えようと思えば、その後の人生で変えることができる。
しかし、直感的にわかるように選びなおすのは簡単ではない。
新しいライフスタイルで人生に向き合おうとすると、たちまち未知の世界にひきこまれてしまうからだ。
例えば、まだそれほど親しくはないけれど、日ごろから密かに好意を抱いている人が向こうから歩いてきたとする。でも、なぜかその人がすれ違いざまに視線を逸らしてしまった。
この時、相手の行動をどう解釈(意味づけ)するか。
「私は嫌われている、避けられている」と考える人がまずいる。
だが、「風が強くてコンタクトがずれたんだろう」と考える人もいるだろうし、さらには、「私に気があるから、わざと意識して目を逸らしたのではないか」と考える人もいる。
自分に気があると考えられたら、とっても幸せだろうが、普通は避けられていると考える人が多いのではないか。なぜなら、「私など相手にされていない」と解釈したほうが、実は楽だからだ。
「目を逸らしたのは好意があるからだ」と意味づけすれば、「話しかける」という次のステップに踏み出す必要がでてくる。しかし、やっぱり勘違い(笑)で、話しかけても無視されて、傷つくかもしれない。
それで多くの人は未知の世界に踏み出す危険を冒すよりは、今のライフスタイル(意味づけ)で生きていきたいと思ってしまう(思うといっても無意識)。
つまり、変われないのではなく、変わりたくないのである。
ライフスタイルを意識化する
そうはいっても、今のライフスタイルでは生きづらい、彼女ができない、どうにかしたいと思ったら…変わるしかない。
では、変わるためにはどうすればいいか。
まず、ライフスタイルを意識化することである。
一度身につけたライフスタイルは、いわば眼鏡やコンタクトレンズのようなもので、使っていることすら自分では忘れてしまっているからだ(あくまでも無意識)。
今自分がどんな眼鏡やコンタクトレンズを使っているか意識化するのである。
そして、意識化するために必要なのは、ライフスタイルの選択に影響を及ぼすものを知ることだ。
ライフスタイルは、本人が選択しているが、その選択に何がどのような影響を与えたかを知ることによって、別の選択肢があったこと、今も昔も相手を変えて同じことをしていることを知ることができ、新しいライフスタイルに踏み出せるからである。
ライフスタイルの選択に影響を及ぼすもの
では、ライフスタイルの選択に影響を与えるものをいくつかみてみる。
遺伝
遺伝や障害は、生まれつきでもそうでなくても、影響がないということはあり得ないだろう。
といってもアドラーはそれらの影響を重視しない(マイナスではないという意味で)。
確かに、身体の器官の弱さや、障害などのハンディキャップは、自分の能力に限界がある理由にしやすいとはいえる。
しかし、ハンディキャップを持っている人が必ずしも依存的になるわけではなく、逆に様々な分野で活躍していることからも、遺伝は決定因ではない。
アドラーが「大切なのは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかだ」と言ったのはそういうことによる。
環境(兄弟)
兄弟関係、生まれた順番などは、ライフスタイルの形成に影響を与えやすい。
例えば、第一子の場合、生まれてしばらくは、王子、王女として親の愛情を一身に受けることができるが、下に弟や妹が生まれると、王座から転落してしまう。この状態を、自分はお兄さん(お姉さん)だから、出来なかったことも自分でできるようにしよう、弟や妹の面倒をしっかり見ようと考えれば、責任感のある、勤勉な努力家になる。しかし、王座からの転落を恐れ、親の注目を集めるために問題行動を起こすようになったり、現状を維持するために保守的になってしまう場合もある。
第二子は、目の前に先行ランナーがいるので、追いつこう、追い越そうという動機が強くなる。そのため、第一子と競合的になりやすく、第一子と別の意味で頑張り屋になる。多くは第一子と正反対の性格になりやすい。
中間子は、すでに兄や姉がいて、ほどなく弟や妹が生まれるため、親の愛を独占したことがないという思いをもちやすい。そのため、親の注目を集めたいと思って問題行動を起こすこともあれば、それをさっさとあきらめ、自分でなんとかしようとして早く自立することもある。また、感受性が豊かで対人関係能力が高く、平和主義者で仲介者的役割、世話役になりやすいともいわれる。基本的に「承認されたい」という目標を持ちやすい。
末っ子は甘やかされて、様々なものを与えられるため、自分で努力せずに人に頼る依存的な子どもになる可能性がある一方、人懐っこい人になるかもしれない。
単独子、一人っ子は、末っ子と似ているところがあるが、兄弟がいないので競争に弱く、対人関係は苦手な人が多いといわれている。「自分は特別」という意識を持ちやすく、よくいうとユニーク、悪くいうと自分勝手という印象だ。単独子はマザーコンプレックスを発展させやすく、母親の愛を競い合うライバルとして、父親を見る(関係を悪化させる)ようになることもある。
いずれにせよ、これらは傾向の話であり、必ずそうなるということではないことに注意を払う必要がある。
環境(親子)
親子におけるライフスタイルの影響因は2つある。
一つ目は「家族価値」。
例えば、学歴を重視するのか、たくましく生きていければいいと考えるのか、といった、それぞれの家族が持っている固有の価値観のことをいう。
両親が二人とも同じ考えを持っている場合、あるいは、別々の価値観を持った両親が絶えず議論しているような場合は、家族価値は強力なものとなる。
一方、どちらか一方だけが強い価値観を持ち、片方が取り合わなければ、その価値観は子どもにもそれほど影響を与えない。
二つ目は「家族の雰囲気」。
家庭内で何かを決定する際のルールとでもいえるものをいう。
父、または母が権威的で常に主導権を握っている場合もあれば、親と子すべて対等に民主的に決める家庭もある。こうした家庭内のルールは、子どもが意識せずとも身につけてしまうので、自分が生まれ育った家庭とは雰囲気が大きく違った家庭で育った相手と結婚した場合に問題になることがある。自分にとっては当たり前だと思っていたことが、相手にとっては当たり前ではないということが明らかになってくるからだ。
対人関係に入っていく「勇気」を持つ
いくつか影響因を挙げたが、このような影響因のなかで、私たちは自分のライフスタイルを決定している。
決定因ではなく、影響因だといっても、これらはかなり強力だ。
「私には魅力がないし、誰も好きになってくれるはずはない」と思っていれば、人と関わる必要がない。対人関係のなかに入っていかないという「目的」を持っているので、「自分のことを嫌いでいよう」と考えてしまう。
そのような人がすべきなのは、結果を怖れず、対人関係に入っていく「勇気」を持つことだ。対人関係は悩みのもとだが、生きる喜びや幸せもまた、対人関係のなかにある。
しないことを過去や環境のせいにしてとどまっていることは簡単だ。しかし、ライフスタイルを選んだのは自分であるのだから、いつでも選び直せるというのがアドラーの考えである。
ライフスタイルを変えないでおこうという決心を取り下げれば、ライフスタイルは変えられるはず。
決心したら、無意識にある自分のライフスタイルを意識化する。
そしてどんなライフスタイルを選べばいいかを知り、選び直す。
実際にどんなライフスタイルをアドラーが推奨しているかは次回以降に。
次回は生きる力の原動力となる、「劣等感」と「優越感」について書く予定。
人それぞれ一歩ずつ前へ進む 「劣等感」と「優越性の追求」 ~アドラー心理学 その2 - ◎晴輪雨読☆