わからないと思って付き合う

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人を理解することは難しい。

そもそも、自分自身のことさえ理解しているかわからないのに、

他者のことを理解するのはとても困難なことだと思う。

 

上の写真は沖縄タイムスで毎週月曜に連載されている「うちの火星人」。

家族6人のうち、父を除いて、母と子どもたち5人が発達障害を抱えている家族の日常を紹介しているもの。

 

2018年3月18日の記事のエピソード。

夫がカゼ気味で体調が悪いときに「だんだん気分が悪くなってきた」ことを伝えると、妻はそれを理解できず、どんな感覚か聞いてくる。

では、そんな妻は体調が悪いときにどう感じているのか。

「ゼロか100しかなくて中間がないから、元気か倒れるかしかない」

「気がついたら(いきなり限界がきて)トラックにひかれたみたいな気分になる」

トラックにひかれる感覚というのは、ほとんど体験したことのない極端な体調不良なので、何か悪い病気ではないかという恐れから強いストレスがあるという意味とのこと。

 

これは発達障害という特性からのもので、事例としては極端かもしれない。だが、発達障害でなくてもいろんな感性を持った人たちがいて、いろんな考え方を持っている。私だってそのひとりだ(そもそも発達障害は人が線引きしたものであり、その境界は曖昧だ)。

そんななかで、そもそもわかり合えるというのは、どんな感覚なのだろうか。

 

わからないと思って付き合うほうが、人はわかり合えると思って付き合うよりはるかに安全でしょう。(アドラー心理学入門 岸見一郎 169ページ)

アドラーによれば、そもそも相手を理解することは不可能であるという。しかし、それを前提としてなお、「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」(「個人心理学講義」189ページ)という意味での「共感」の重要性を説く(「アドラー心理学入門」171ページ)。

 

 

わからないけど、わかるための努力をする。

それをお互い続けていくことが大事ということだろうか。

 

でも、努力することも簡単じゃない。いろんな感情が邪魔をするから。

 

  

話はちょっと変わるが、「発達障害」という言葉には誤解や差別的なものを感じる。

このコーナーでは「発達凹凸」という言葉を使っている。

凹凸がある人は、社会生活を送る上で周囲とのトラブルを起こしやすいので、そうならないために周囲の理解や本人の努力が必要である。

しかし、いわゆる平均的な人と比べて、得意なことと不得意なことにはっきりとした特徴があるということで、それに「障害」という言葉を使うのは不適切ではないだろうか。

 

 

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