黒澤明の「生きる」


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生きる 黒澤明

 

初めて黒澤映画をちゃんと観た。

 

タイトルは重いが、テンポ、雰囲気は意外に軽い、というかコメディに近い部分もある。

「生きる」ことは何かを主題に、人生の喜怒哀楽、美しさ、人間の滑稽さ、可笑しさが絶妙なバランスで表現されている。 

 

主人公は市役所の市民課長。定年まであと数年というところ。

市民の意見や要望を関係課に繋ぐのが主な仕事。

典型的なお役所仕事で、書類に目を通し、ハンコを押す毎日。

一見、忙しそうに働いている。

しかし、やってもやらなくてもいいようなことをし、忙しそうなふりをして時間を潰しているだけ。「彼は生きているとはいえない」(ナレーションの言葉)。

 

そんな主人公、体調不良で病院へ。

そこで自分が末期の胃がんであることを知る(確信する)。

 

口下手な主人公は胃がんであることを息子夫婦にも伝えられず、途方に暮れる。

 

コツコツ貯めた貯金を下ろして、高いお酒を飲み、夜の街に繰り出して派手に遊ぼうとするが全く楽しめない。

 

生きている実感がない。残された人生をどう生きればいいのか。

 そんな中、部下の若い女性職員が、役所の仕事はつまらないから辞める、決裁のためにハンコを押してくれと頼みに来る。

 

生命力あふれる彼女に魅力を感じる主人公。

彼女と一緒にいると楽しい。どうしたら残りの人生を楽しめるのか彼女から教えてもらえるのではないか。

彼女の生命力の秘密を知りたくて、しつこくすがる。

そこで彼女が発した一言。

「課長さんもなにか作ってみたら」

 

ここから主人公の行動が一変する。

無断欠勤していた職場に出勤し、仕事に手をつけはじめる。

ここでシーンが切り替わる… 

 

 

次のシーンは主人公のお通夜。

 助役を筆頭に各部長や主人公の部下など、市役所関係者がずらりと並ぶ。

 

話題の中心は、ここ数か月、主人公は人が変わったように仕事に打ち込んでいたが、自分の死期を知っていたのかどうか。

 

主人公が打ち込んでいた仕事は、公園建設だった。

ある地区の住民が公園の建設を求めていたが、道路、下水、環境衛生など各課をまたぐ様々な問題があり、たらい回しになって実現できないでいた。

主人公は関係各課に頭を下げ、調整して回り、公園建設を実現させたようだ。

 

しかし、誰も主人公の手柄だとは言わない。

助役は土木部長や公園課長の手柄だと言い、土木部長は入り組んでいた問題をとりまとめた助役が最大の功労者だと言い、結局みんなで助役を「よいしょ」する…

 

でも、主人公の努力を見ていた人たちは居る。

公園建設に感謝している住民が焼香に来て、すすり泣いて悲しんでいる。

助役や幹部連中は気まずくなり帰っていく。

 

市民課の部下たちが 、主人公が死期を知っていたことに気づいたとき、主人公の生きている最後の姿を見た(主人公は公園で亡くなっているのを発見されている)という警察官が焼香に来る。

 

警察官の見た主人公の最後の姿。

その回想シーンは、モノクロ映画であることを忘れるほど美しい。

 

雪の降る夜、完成した公園で一人ブランコに乗る主人公。

充実した表情を浮かべながら「ゴンドラの唄」を歌う。

いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 あせぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを…

 

 

主人公は日々を何となく過ごしてしまう私たちのことを指しているのだろう。

誰しも自分の人生に終わりがあることを知っていながらも、自分の死を他人事のように捉えている。

自分の死期を知ったら本当に今の過ごし方ができるだろうか。

限りある人生を大切に過ごしなさい、精一杯楽しみなさい、そんなメッセージを感じる。

 

それにしても、主人公が胃がんであることを確信するシーンはまるでコント。

助役を「よいしょ」するシーンは気持ち悪さを感じながらも、ニヤニヤ。

あと、お通夜の席で主人公の意志を継ぐぞ!と決意表明した部下たち。

そのあと職場ですぐに前言撤回行動!

お酒飲んでるときの決意表明なんかあてにならない(笑)

 

モノラル音声、セリフも一部早口、同じカットなのにセリフの音量が変わるなど、普通だったらなかなか集中できないが、140分があっという間だった。

いい映画だ。 

 

 

生きる

生きる

 

  

イワン・イリッチの死 (岩波文庫)

イワン・イリッチの死 (岩波文庫)

 

 

愛の技術 ~愛するということ

 

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愛するということ エーリッヒ・フロム

 エーリッヒ・フロム(1900.3.23~1980.3.18)はドイツの社会心理学精神分析、哲学の研究者。

代表作にファシズムの心理学的起源を明らかにした「自由への逃走」がある。

そのフロムが1956年に書いた本。原題は「The Art of  Loving」。直訳すると「愛の技術」。

 

60年以上前の本だが、古さを感じさせず、何度も読み返したい本だったので、ほぼ要約した(全体の流れを考え、重要だが思い切って省いた部分もある)。 

 

 

愛は技術である

フロムはまず、愛は「技術」であり、技術である以上、知識と努力が必要であると説く。

しかし人々は愛を学ぼうとしていない。

その理由は、

  • 愛の問題を能力の問題ではなく、「愛される」問題として捉えていること。
  • 愛の問題は「対象」の問題であって「能力」の問題ではないと思い込んでいること。
  • 恋に「落ちる」という最初の体験と、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを混同していること。

 にあるという。

愛の失敗を克服するには、愛の意味を学ぶこと、そのための第一歩は、愛は技術であることを知ること。その技術を習得するには、理論に精通し、習練に励み、それが究極の関心事にならなければならない。 

 

まず、愛の技術の理論的側面から論じる。

 

愛、それは人間の実存の問題に対する答え

どの時代のどの社会においても、人間は、いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するか、いかに個人的な生活を超越して他者との一体化を得るか、という問題に直面している。

これらの問いに対して、人は孤立感から逃れるために、「祝祭的な興奮状態」「集団等への同調」「創造的な活動」といった方法をとる。

だが、この問いに対する完全な答えは、人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち「愛」にある。

 

ここでいう「愛」は、共棲的結合という未成熟な愛ではない。

共棲的結合の受動的な形はマゾヒズムであり、能動的な形はサディズムである。マゾヒスティックな人、サディスティックな人、どちらも相手に依存していて、相手なしには生きていけない。

成熟した「愛」は自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間のなかにある能動的な力であり、人をほかの人々から隔てている壁をぶち破り、人と人とを結びつける。

 

また、「愛」は何よりも「与える」ことである。

自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与える。

もらうために与えるのではない。だが、与えることによって、他人のなかに何かが生まれ、何かを受け取ることになる。与えれば、他人をも与える者にし、たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かちあう。

 そういう意味で「愛」とは「愛を生む力」である。

 

あらゆる形の愛には共通して、「配慮」、「責任」、「尊敬」、「知」の基本的な要素が見られる。

愛における「配慮」は、愛する者の生命と成長に積極的に気にかけることである。

「責任」があるとは、他人の要求に応じられる、応じる用意があるという意味である。

「尊敬」とは、人間のありのままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力である。

そして、人を「尊敬」するには、その人のことを「知」らなければならない。

 

この「知」については、もう一つ愛との根本的な関係がある。

他の人と融合したいという基本的な欲求は、「人間の秘密」を知りたいという人間的な欲求と密接にかかわっている。

 愛とは、能動的に相手のなかへと入ってゆくことであり、その融合よって欲求が満たされる。ただし、ふつうの意味で「知る」のではない。結合の体験によって知るのであって、考えて知るわけではないのだ。

 

配慮、責任、尊敬、知はたがいに依存しあっているが、この一連の態度は成熟した人間に見られる。

成熟した人間は、自分の力を生産的に発達させる人、自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人、全知全能というナルシズム的な夢を捨てた人、純粋に生産的に活動からのみ得られる内的な力に裏打ちされた謙虚さを身につけた人である。

 

親子の愛 

 母親の愛は無条件である。

8歳半から10歳くらいの年齢に達するまで、子どもにとって問題なのはもっぱら「愛されること」である。

そして思春期にさしかかると、自己中心性を克服し、愛されるよりも愛するほうが、より満足のゆく、より喜ばしいことになる。愛することによって、生まれてはじめて、合一感、共有意識、一体感といったものを知る。

未成熟な愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は、「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。

 

一方、父親の愛は、条件付きであり、権威的である。

子どもを教育し、世界へとつながる道を教えるのが父親である。

生まれてから数年間は母親の愛が最重要だが、成長に従って、子どもは独立してゆき、母親との関係はその決定的重要性を失い、父親との関係が重要になってくる。それは、母親と父親の愛の本質的な性質の違いによるものである。

 

やがて、子どもは成熟し、自分自身が自分の母親であり父親であるような状態に達する。母親への愛着から父親への愛着へと変わり、最後に双方が統合されるというこの発達こそ、精神の健康の基礎であり、成熟の達成である。

 

愛の対象 

愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。

一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。

 

a.兄弟愛

兄弟愛は、もっとも基本的な愛である。

兄弟愛とは人類全体にたいする愛であり、排他的なところが全くない。

兄弟愛の根底にあるのは、私たちは一つだという意識である。

 

b.母性愛

 母性愛は子どもの生命と必要性にたいする無条件の肯定である。

子どもの生命の肯定には、

  1. 子どもの成長を保護するために絶対必要な気づかいと責任
  2. 生きることへの愛を子どもに植えつけ、「生きているのはすばらしい」といった感覚を子どもに与える態度

といった側面がある。

この側面は聖書の象徴にも表現されている。 

すなわち、約束の地(大地はつねに母親の象徴)は、「乳と蜜の流れる地」として描かれている。「乳」は第一の側面、すなわち世話と肯定の象徴である。「蜜」は人生の甘美さや、人生への愛や、生きていることの幸福を象徴している。

たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることのできる母親は少数である。「蜜」を与えることができるためには、母親自身が幸福な人間でなければならない。

 

異性愛では、離れ離れだった二人が一つになる。母性愛では一体だった二人が離れ離れになる。母親は子どもの巣立ちを耐え忍ぶだけでなく、それを望み、後押ししなければならない。

 

c.異性愛

異性愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つになりたいという強い願望である。

異性愛はその性質からして排他的であり、普遍的ではない。また、もっとも誤解されやすい愛の形である。

 

恋に「落ちる」という劇的な体験、突然親密になるというこの体験は、性質上長続きしない。

相手の人格の無限性を知れば、壁を乗り越えるという奇跡は毎日新たに起こるかもしれない。だが、たいていの場合、自分自身も他人もすぐに探検し、知りつくしてしまう(探検し、知りつくしたと思ってしまう)。

そういう人の場合、肉体的に結合することをはじめ、さまざまなことを試みて、孤立を克服しようとする。しかし、これらから得られる親密さは、時が経つにしたがって失われていく。その結果、まだよく知らない新しい人との愛を求める。

 

異性愛は、一人の人間としか完全に融合することはできないという意味においてのみ、排他的であり、それは所有欲に基づくものではない。

異性愛の一つの前提は、自分という存在の本質から愛し、相手の本質と関わりあうことである。

 

誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。

もし愛がたんなる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束にはなんの根拠もないことになる。

感情は生まれ、消えていく。もし自分の行為が決意と決断にもどづいていなかったら、私の愛は永遠だなどと、どうして言い切ることができよう。

 

以上のことから次のような見解に達する人もいるかもしれない。

愛は意志と決断の行為であるから、当事者二人が誰であるかは問題でなく、結婚が他人によって決められたものであろうと、自分たちの選択であろうと、ひとたび結婚したら意志に基づく行為と愛の持続を保証すべきである、と。

しかしそれは、人間の本性も異性愛パラドックスに満ちていることを見落としている。

私たちはみな「一者」だが、一人ひとりはかけがえのない唯一無比の存在である。

兄弟愛という意味ではすべての人を同じように愛するが、一人ひとり異なるから、異性愛はきわめて個人的な要素を必要とする。

したがって、異性愛は個人と個人が引きつけあうことであり、特定の人間どうしの独特のものであるという見解も正しいし、異性愛は意志の行為にほかならないという見解も正しい。いや、もっと正確に言えば、どちらも正しくない。

それゆえ、異性愛はうまくゆかなければ簡単に解消できる関係であるという考え方も、どんなことがあっても解消してはならないという考え方も間違っている。

 

d.自己愛

私自身も他人と同じく私の愛の対象になる。

自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊敬・責任・理解(知)に根ざしている。

 

利己主義と自己愛とは同じどころか、正反対である。

利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎる。

利己的な人は、自分を愛していないために、空虚感と欲求不満から抜け出すことができず、それをなんとか埋め合わせ、ごまかそうとしているのである。

 

e.神への愛

神への愛も孤立を克服して合一を達成したいという欲求に由来する。

 

 真に宗教的な人は、一神教思想の本質に従うならば、何かを願って祈ったりしないし、神にたいして一切何も求めない。

彼はこう考える。

人生は、自分の人間としての能力をより大きく開花できるような機会を与えてくれるという意味においてのみ価値があり、能力の開花こそが真に重要な唯一の現実であり、「究極的関心」の唯一の対象なのだ、と。

そして、彼は神について語らないし、その名を口にすることもない。

したがって、神を愛するということは、最大限の愛する能力を獲得したいと願うことであり、「神」が象徴しているものを実現したいと望むことなのである。

 

神への愛とは思考によって神を知ることでも、神への愛を考えることでもなく、神との一体感を経験する行為なのである

 

神への愛は、はじめは母なる女神への無力な者の依存であり、次に父性的な神への服従になり、成熟した段階になると、人間は神を、人間の外側にある力とみなすことはやめ、愛と正義の原理を自分自身のなかに取り込み、神と一つになる。最終的には詩的に、あるいは象徴的にしか神について語らないようになる。

 

愛と現代西洋社会におけるその崩壊

西洋文明の社会構造とそこから生まれた精神は、愛の発達を促すものではない。

 資本主義の発達により、資本の分野でも労働の分野でも主導権は個人から組織へ移行している。個々の労働者は個性を失い、使い捨ての機械部品になっている。

現代資本主義は、大人数で円滑に協力しあう人間、飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて外からの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間を求めている。また、自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従せず、それでいて命令には進んで従い、期待に沿うように行動し、摩擦を起こすことなく社会という機械に自分をはめこむような人間、命令に黙々と従って働く人間を求めている。

その結果、現代人は自分自身からも、仲間からも、自然からも疎外されている。現代人は商品と化し、自分の生命力もまるで投資のように感じている。

誰もができるだけほかの人々と密着していようと努めるが、それにもかかわらず誰もが孤独で、孤独を克服できないときに必ずやってくる不安定感・不安感・罪悪感に怯えている。 

 

現代文明は、人々がそうした孤独に気づかないように、さまざまな鎮痛剤を提供している。制度化された機械的な仕事、画一化された娯楽、大量消費社会などである。

今日の人間の幸福は「楽しい」こと、何でも「手に入れ」、消費すること。いまや私たちの性格は、交換と消費に適応している。精神的なものまでもがその対象だ。

 

必然的に愛をめぐる状況も、現代人のそうした社会的性格に呼応している。

幸福な結婚に関する記事を読むと、結婚の理想は円滑に機能するチームだと書いてある。こうした発想は、滞りなく役目を果たす労働者という考えとたいして違わない。

こうした関係を続けていると、二人のあいだがぎくしゃくすることはないが、結局のところ、二人は生涯他人のままであり、けっして「中心と中心の関係」にはならず、相手の気分を壊さないように努め、お世辞を言いあうだけの関係にとどまる。

こうした考え方では、堪えがたい孤独感からの避難所を見つけた、ということで人は世界にたいして、二人からなる同盟を結成する。この二倍になった利己主義が、愛や親愛の情だと誤解されている。

 

人は、愛があれば対立は起きないと信じている。

対立が破滅的な交わりに見えるからだ。しかし、ほとんどの人の「対立」は、実は、真の対立を避けようとする企てにすぎない。解決などありえないような些細な表面的なことで対立しているのだ。

二人の間に起きる真の対立は、けっして破滅的ではない。かならず解決し、カタルシス(浄化)をもたらし、それによって二人はより豊かな知識と能力を得る。

 

二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。この「中心における経験」のなかにしか、人間の現実はない。

人間の生はそこにしかなく、したがって愛の基盤もそこにしかない。そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦である。それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。

調和や対立、喜びや悲しみといったことは根本的な事実に比べたら取るに足らない問題だ。根本的な事実とは、二人の人間がそれぞれの存在の本質において自分自身を経験し、自分自身から逃避するのではなく、自分自身と一体化することによって、相手と一体化するということである。

愛があることを証明するものはただ一つ、すなわち二人の結びつきの深さ、それぞれの生命力と強さである。これが実ったところにのみ、愛が認められる。

  

愛の習練

ここまでは「愛の技術」の理論的な側面について論じたが、ここからは、それよりも難しい愛の技術の習練を論じる。

 

読者の多くは「どうしたら愛することができるか」を教えてもらうことを期待しているが、そういう気持ちでこの最終章を読むとひどく失望するにちがいない。

愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はないのである。

愛の習練に関する議論にできることは、愛の技術の前提条件、アプローチ、そして、前提条件とアプローチの習練について論じることだけである。決定的な一歩を踏み出すところで議論は終わる。

 

愛の技術の習練に必要なのは、規律、集中、忍耐、最高の関心である。

規律は、外から押し付けられた規則のようなものではなく、規律が自分自身の意志の表現となり、楽しいと感じられ、少しずつ慣れていき、それをやめると物足りなく感じられるようになることだ。

集中するとは、いまここで、全身で現在を生きることである。

いちばん集中力を身につけなければならないのは、愛しあっている者たちだ。ふつう、二人はさまざまな方法で互いから逃げようとするが、そうではなく、しっかりとそばにいることを学ばなければならない。最初のうちは非常に難しい。目的を達成できないのではないかという気分になる。したがって、忍耐力が必要となる。

 

愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。

ナルシシズム傾向の強い人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。

反対の極みにあるのは客観性だ。

人を愛するためには、ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが必要であるから、謙虚さと客観性と理性を育てなければならない。

 

愛することができるかどうかは、ナルシシズムからどれくらい抜け出ているか、また、生産的な方向性を育てる能力が、どの程度身についているかにもよる。

この脱出、覚醒の過程では、「信じる」ことが必須条件となる。

愛の技術の習練には「信じる」ことの習練が必要なのである。

 

 理にかなった信念(信じる)とは、自分自身の思考や感情の経験にもとづいた確信である。

信念は、人格全体に影響を及ぼす性格特徴であり、ある特定の信条ではない。

理にかなった信念は、知性面や感情面での生産的な活動に根ざしており、合理的思考の重要な構成要素である。大多数の意見とは無関係な、自分自身の生産的な観察と思考にもとづいた、他のいっさいから独立した確信に根ざしている。

 

他人を「信じる」ということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものと確信することである。

これは人は意見を変えてはならないという意味ではない。ただ、根本的な動機は変わらないのである。生命や人間の尊厳にたいする畏敬の念はその人の一部分であって、変化することはない。

 

同じ意味で、私たちは自分自身を「信じる」。

自分のなかに、一つの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する。

この芯こそが、「私」という言葉の背後にある現実であり、「私は私だ」という確信を支えているのはこの芯である。

 

自分自身を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。

自分自身に信念を持っている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という確信をもてるからだ。

自分自身にたいする信念は、他人にたいして約束ができるための必須条件である。

 

愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛にたいする信念である。

つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

 

信念をもつには勇気がいる。

勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。

愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。

ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。

 

信念と勇気の習練は、日常生活のごく些細なことから始まる。

第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。

それによって、次のようなことがわかるはずだ。

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れている

 

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。

愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない

 

 愛の習練に欠かすことのできない姿勢、それは能動性である。

たんに「何かをする」ことではなく、内的能動、つまり自分の力を生産的に用いることである。

人を愛するためには、精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高めなければならない。そして、そのためには、生活の他の多くの面でも生産的かつ能動的でなければならない。

 

資本主義を支えている原理と、愛の原理とは、両立しえない。

もっとも、「資本主義」それ自体が複雑で、その構造はたえず変化しており、いまなお、非同調や個人の自由裁量を許容していることも、認めなければならない。

したがって、資本主義社会に生きているからといって、愛の習練を積むことができないというわけでもない。

 

人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。

人を愛するという社会的な本性と、社会的生活とが、分離するのではなく、一体化するような、そんな社会をつくりあげなければならない。

 

愛について語ることは、「説教」ではない。

その理由は簡単だ。

愛について語ることは、どんな人間のなかにもある究極の欲求、本物の欲求について語ることだからである

 

愛の可能性を信じることは、人間の本性そのものへの洞察にもとづいた、理にかなった信念なのである。

 

 

 
 

3月トレーニングまとめ

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 2018年3月

走行距離:798.39km

走行時間:31h46m

獲得標高:5,761.5m

消費エネルギー:15,659kj

 

2月はかなり練習さぼってたので、なんとか火をつけようとした。

一応着火したけど、消えそう(笑)

 

しかも、最終週に胃腸炎になってしまった。

仕事も忙しいし、胃腸炎の回復が遅れると筋肉が削れてコンディションが落ちてしまうので、回復のために最大限の努力を実行。

医者はお粥だけ食べなさいと言っていたが、以下の本を参考に、りんご、バナナ、梅干し、はちみつ緑茶、納豆(これは本に書いてない)などを、胃腸の負担を考えながら少量ずつ補給。

また、小腸のエネルギー源になるということで、グルタミンパウダーも接種(これはネット情報)。

あとはとにかく寝る。

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一応2日で症状は改善。

3日目からは通常の食事を少なめに食べ、4日目からは通常通り(3日目はフラフラだったけど)。

被害は最小限に抑えらたかな。

 

この本、いろんな症状に対して効果のある食べ物、レシピなどを紹介している。

情報量はそんなに多くないが、弱っているときには情報があり過ぎても処理できないのでちょうど良い。

あと、イラストに癒される。これ結構重要(笑)

 

 

おいしく食べて体に効く!クスリごはん

おいしく食べて体に効く!クスリごはん

 

 

 

 

 

ヒトはなぜ病気になるのか その2

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「病の起源 がんと脳卒中」 NHK取材班

ちょっと前に「ヒトはなぜ病気になるのか」というタイトルでうつ病と心臓病についてブログを書いた。今回はがんと脳卒中の本。

病気の根源にある発症の秘密は、人類あるいは生物の歴史・進化の極めて深い世界にあるということを探るNHKの番組を書籍化したもの。

 

 

そのなかから、がんの話を一部紹介。

 

 

ヒトとチンパンジーの違いは1%の遺伝子。チンパンジーががんで死亡する割合は2%、対してヒトは30%にものぼる

 

ヒトはなぜがんになりやすいのか。

進化との関係で一つだけ挙げると、直立二足歩行と繁殖戦略の関係。

ヒトが直立二足歩行をするようになった説で「プレゼント仮説」というものがある。

オスが自由になった両手で食料を運び、メスにプレゼントするため、二足歩行が広まったという説だ。たくさんの食べ物を提供するオスを選んだメスは子どもにより多くの栄養を与えられ、結果的に繁殖に成功しやすくなるのだ。

そして、メスはオスから安定的に食料を運んできてもらうため、妊娠可能であることを示すサインを隠すようになったのではないかと考えられている(チンパンジーは妊娠可能な状態になったときに尻の「性皮」が膨らんでオスに合図する)。

要するに、メスはいつ交尾ができるかを隠しておくことによって、オスに安定的にプレゼント(食料)を貰えるようにしている。交尾ができるときがわかってしまうと、プレゼントはその時しかもらえないかもしれないからだ(切ない・・・笑)。

オスはいつ来るかわからない交尾の機会を逃さないために、継続的に精子を作らざるを得なくなったが、精子の生存率を上げるためにある遺伝子を持つようになった。

その遺伝子をがん細胞も効率的に利用しているというのである。

 

ほかにも、脳の発達とも関係があると言われていて、関係ある酵素ががん細胞の増殖に使われていたり、日光を浴びることによってビタミンDを作っていたが、それが十分にできなくなったことなども原因として挙げられている。

 

もっとも、こういった進化に伴うリスクは抱えているものの、結局のところ、成人のがんの場合、最大の原因は生活習慣だという。 日常生活によって、がん防御のシステムを台無しにしている可能性があるのだ。食生活、たばこ、感染症、出産・性生活、職業、アルコール、などである。

 また、長寿命化もある程度関係している。自然に任せておけば死ぬはずなのに死なず、野生動物なら食べられて死ぬはずなのに、我々は生き延びるようになった。

 

「私たちが、がんや他の病気の治療技術を向上させるほど、がんになる人は増えるでしょう。~ヒトは長生きすればするほど、がんになりやすくなるからです。これは大きなパラドックスに思えますが、進化の視点から見れば、理にかなっています。私たちの細胞は、遺伝子を次の世代に渡すためにある、使い捨ての乗り物に過ぎないからです」(154ページ)

 

「90%ほどのがんは、主な危険因子は遺伝的要因を除けば、社会工業の産物と関係しているのである。私たち一人ひとりはそれに対して、日常的に限られた情報と意思に基づいた選択を迫られている。知る、知らないにかかわらず、(体の)組織に対する反復性のもしくは慢性的で有害な損傷、または継続的なストレスにさらされている。その結果、変異が起こる可能性が上昇する。(中略)遺伝という巡りあわせに対してできることはほどんとないが、食習慣とエネルギーバランスは、大いに社会的・文化的なものであり、変えられるものである」(『がん 進化の遺産』メル・グリーブス)(156ページ)

 

まとめると、我々は、進化の過程でがんになるリスクを抱えているが、そのリスクを上げるも下げるも日々の生活習慣によるところが大きいということである。

 

 

NHKスペシャル 病の起源 がんと脳卒中

NHKスペシャル 病の起源 がんと脳卒中

 

 

 

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 

 

 

 

わからないと思って付き合う

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人を理解することは難しい。

そもそも、自分自身のことさえ理解しているかわからないのに、

他者のことを理解するのはとても困難なことだと思う。

 

上の写真は沖縄タイムスで毎週月曜に連載されている「うちの火星人」。

家族6人のうち、父を除いて、母と子どもたち5人が発達障害を抱えている家族の日常を紹介しているもの。

 

2018年3月18日の記事のエピソード。

夫がカゼ気味で体調が悪いときに「だんだん気分が悪くなってきた」ことを伝えると、妻はそれを理解できず、どんな感覚か聞いてくる。

では、そんな妻は体調が悪いときにどう感じているのか。

「ゼロか100しかなくて中間がないから、元気か倒れるかしかない」

「気がついたら(いきなり限界がきて)トラックにひかれたみたいな気分になる」

トラックにひかれる感覚というのは、ほとんど体験したことのない極端な体調不良なので、何か悪い病気ではないかという恐れから強いストレスがあるという意味とのこと。

 

これは発達障害という特性からのもので、事例としては極端かもしれない。だが、発達障害でなくてもいろんな感性を持った人たちがいて、いろんな考え方を持っている。私だってそのひとりだ(そもそも発達障害は人が線引きしたものであり、その境界は曖昧だ)。

そんななかで、そもそもわかり合えるというのは、どんな感覚なのだろうか。

 

わからないと思って付き合うほうが、人はわかり合えると思って付き合うよりはるかに安全でしょう。(アドラー心理学入門 岸見一郎 169ページ)

アドラーによれば、そもそも相手を理解することは不可能であるという。しかし、それを前提としてなお、「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」(「個人心理学講義」189ページ)という意味での「共感」の重要性を説く(「アドラー心理学入門」171ページ)。

 

 

わからないけど、わかるための努力をする。

それをお互い続けていくことが大事ということだろうか。

 

でも、努力することも簡単じゃない。いろんな感情が邪魔をするから。

 

  

話はちょっと変わるが、「発達障害」という言葉には誤解や差別的なものを感じる。

このコーナーでは「発達凹凸」という言葉を使っている。

凹凸がある人は、社会生活を送る上で周囲とのトラブルを起こしやすいので、そうならないために周囲の理解や本人の努力が必要である。

しかし、いわゆる平均的な人と比べて、得意なことと不得意なことにはっきりとした特徴があるということで、それに「障害」という言葉を使うのは不適切ではないだろうか。

 

 

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個人心理学講義―生きることの科学 (アドラー・セレクション)

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アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

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思いやることも、思いやられることも、縦の関係に繋がる

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アドラー心理学入門 岸見一郎

 

「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」の著者がアドラー心理学がブームになる前の、1999年に書いた本。

 

上の勇気二部作は哲学者と若者の対話を通してアドラー心理学を理解していく形式になっていたため、普通の解説的なものを読んでみたくて手に取った。

 

結論としては、あまり目新しいものはなかった。

新書で字数も少ないので、理解のしやすさは勇気二部作のほうが上だと思う。

 

そのなかで、勇気二部作には書かれていなくて(たぶん)、特に印象に残ったものを少しだけ。

 

アドラー心理学では、安易に承認欲求を満たすこと(ほめること)を否定する。

それは、人は承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになり、他者の人生を歩むことになるから。

 

また、自分は他者の期待を満たすために生きているのではないということを主張するのであれば、当然、他者も自分の期待を満たすために生きているわけではないことを認める必要がある。

 

そして、他者の行動や生き方が気に入らなくても、それは他者の課題であり、そこに介入してはならない。対人関係のトラブルは他者の課題に介入することや自分の課題に介入されることによっておこるからである。

 

したがって、自分の課題は自分で解決することが基本である。しかし、人それぞれ能力には限界があるので、他者に依頼して助けてもらうことも必要だ。もっとも、他者は依頼すれば自分を助けてくれるかもしれないが、それはその人の善意であって、義務ではない。

これは、他者から自分の気持ちを察してもらったり、思いやられることを期待してはいけないということであり、黙っている限りは自分の思いは人に伝わらないということを意味している。

言葉を重視し、言葉でコミュニケーションをとる必要があるのだ。

 

察することや思いやられることを期待することの問題は、自分の意図を理解してもらえなかった場合、最後は攻撃的になって主張を通そうとするか、主張は引っ込めるけれども復習的になって終わることが多いことにある。

「会田雄二は、察しと思いやりの世界はうまくいくと最上の世界になるが、歯車が少しでも食い違うと収拾がつかない憎悪とひがみの世界を作り上げてしまう、と指摘・・・」している。(日本人の意識構造 会田雄二)

 

アドラーは人間関係は横の関係で考えることが必要で、縦の関係はトラブルの原因だと言っている。

思いやることも、あるいは思いやられることを期待することも、頼まれもしないのに手出し口出しするのと同様、すでに見てきた縦関係に他なりません。相手が自分では何もできないと見なすことであり、少なくとも、依頼することもできない、と見なすことだからです。(167ページ)

 

 

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

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日本人の意識構造 (講談社現代新書)

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沈黙 ~信仰、神とはなにか

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「沈黙」 原作 遠藤周作

     映画監督 マーティン・スコセッシ

 

今回は、まず映画を観て、次に小説を読んだ。

映画の「関ヶ原」は少し残念だったが、今回の「沈黙」は凄い映画だった。 

小説を読んだのは、映画では読み取れない何かがあるのかを確認するのと、世界観をじっくり感じてみたかったから。 

映画は小説の世界観を見事に表現していて、観終わった後も長く余韻が残った。

 

ストーリーは単純。江戸時代初期、島原の乱が平定され、キリスト教の弾圧は苛烈を極めていた。師であるフェレイラ教父が弾圧により日本で棄教させられたことを聞いた教え子の若い司祭二人は、危険を冒し日本に潜入する。何とか日本人信徒と会うことができるが、すぐに捕らえられ、拷問を受け、棄教するというもの。

 

 主人公の司祭ロドリゴは、過酷なキリスト教弾圧を目の前にして、神がなぜ沈黙しているのか、何度も問いかける。あるいは神は存在しないのではないかとも。

結局、自分の信仰を守るか、自らの棄教によって基督の教えに従い苦しむ人々を救うかの究極の選択を迫られ、ロドリゴは踏絵を踏み、転ぶ(棄教する)ことによって人々を救うことを選択する。

ロドリゴが足を上げたとき、鈍い重い痛みを感じた。そのとき踏絵の中の基督は、「踏むがいい。お前のその足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。

 

小説の最後、ロドリゴとキチジロー(ロドリゴを裏切って役人に売りつけた切支丹)の会話は奥深い。

(心の)弱い者と強い者がいて、強い者はどんな責め苦にも耐え、殉教し天国にいくことができるが、自分のような弱い者は役人に責められれば踏絵を踏むしかなく苦しんでいることをキチジローは訴える。

ロドリゴは、「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」と答える。

彼は踏絵に足をおろしたとき、「激しい悦びと感情」を抱いたが、それをキチジローに説明することはできなかった。

 彼は踏絵を踏むことによって、本当の神への愛を理解した。

「今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。」

 

私自身、キリスト教や宗教の知識があまりないので、このやり取りを自分のなかに落とし込めているとは言えないが、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」の神への愛の記述のなかに、近いものがあると思ったので引用する。

真に宗教的な人は、もしも一神教思想の本質に従うならば、何かを願って祈ったりしないし、神にたいしていっさい何も求めない。子どもが父や母を愛するように神を愛したりしない。そういう人は、自分の限界を知るだけの謙虚さを身につけており、自分が神について何一つ知らないということを承知している。そのような人にとって、神は、進化のもっと前の段階で、人間が自分たちの熱望するものすべて、すなわち精神世界、愛、真実、正義といったものを表現していた象徴となる。そういう人は、「神」が表象するさまざまな原理を信仰する。すなわち真理について思索し、身をもって愛と正義を生きる。彼はこう考える。人生は、自分の人間としての能力をより大きく開花できるような機会を与えてくれるという意味においてのみ価値があり、能力の開花こそが真に重要な唯一の現実であり、「究極的関心」の唯一の対象なのだ、と。そして、彼は神について語らないし、その名を口にすることもない。したがって、神を愛するということは(彼がこの表現を用いるとしたら)最大限の愛する能力を獲得したいと願うことであり、「神」が象徴しているものを実現したいと望むことなのである。(110ページ)

 

遠藤周作キリスト像は「同伴者イエス」と言われていて、全く同じ意味ではないかもしれないが、的外れということもないのではないだろうか。

 

 

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沈黙 (新潮文庫)

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愛するということ 新訳版

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