ヒトはなぜ病気になるのか その2

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「病の起源 がんと脳卒中」 NHK取材班

ちょっと前に「ヒトはなぜ病気になるのか」というタイトルでうつ病と心臓病についてブログを書いた。今回はがんと脳卒中の本。

病気の根源にある発症の秘密は、人類あるいは生物の歴史・進化の極めて深い世界にあるということを探るNHKの番組を書籍化したもの。

 

 

そのなかから、がんの話を一部紹介。

 

 

ヒトとチンパンジーの違いは1%の遺伝子。チンパンジーががんで死亡する割合は2%、対してヒトは30%にものぼる

 

ヒトはなぜがんになりやすいのか。

進化との関係で一つだけ挙げると、直立二足歩行と繁殖戦略の関係。

ヒトが直立二足歩行をするようになった説で「プレゼント仮説」というものがある。

オスが自由になった両手で食料を運び、メスにプレゼントするため、二足歩行が広まったという説だ。たくさんの食べ物を提供するオスを選んだメスは子どもにより多くの栄養を与えられ、結果的に繁殖に成功しやすくなるのだ。

そして、メスはオスから安定的に食料を運んできてもらうため、妊娠可能であることを示すサインを隠すようになったのではないかと考えられている(チンパンジーは妊娠可能な状態になったときに尻の「性皮」が膨らんでオスに合図する)。

要するに、メスはいつ交尾ができるかを隠しておくことによって、オスに安定的にプレゼント(食料)を貰えるようにしている。交尾ができるときがわかってしまうと、プレゼントはその時しかもらえないかもしれないからだ(切ない・・・笑)。

オスはいつ来るかわからない交尾の機会を逃さないために、継続的に精子を作らざるを得なくなったが、精子の生存率を上げるためにある遺伝子を持つようになった。

その遺伝子をがん細胞も効率的に利用しているというのである。

 

ほかにも、脳の発達とも関係があると言われていて、関係ある酵素ががん細胞の増殖に使われていたり、日光を浴びることによってビタミンDを作っていたが、それが十分にできなくなったことなども原因として挙げられている。

 

もっとも、こういった進化に伴うリスクは抱えているものの、結局のところ、成人のがんの場合、最大の原因は生活習慣だという。 日常生活によって、がん防御のシステムを台無しにしている可能性があるのだ。食生活、たばこ、感染症、出産・性生活、職業、アルコール、などである。

 また、長寿命化もある程度関係している。自然に任せておけば死ぬはずなのに死なず、野生動物なら食べられて死ぬはずなのに、我々は生き延びるようになった。

 

「私たちが、がんや他の病気の治療技術を向上させるほど、がんになる人は増えるでしょう。~ヒトは長生きすればするほど、がんになりやすくなるからです。これは大きなパラドックスに思えますが、進化の視点から見れば、理にかなっています。私たちの細胞は、遺伝子を次の世代に渡すためにある、使い捨ての乗り物に過ぎないからです」(154ページ)

 

「90%ほどのがんは、主な危険因子は遺伝的要因を除けば、社会工業の産物と関係しているのである。私たち一人ひとりはそれに対して、日常的に限られた情報と意思に基づいた選択を迫られている。知る、知らないにかかわらず、(体の)組織に対する反復性のもしくは慢性的で有害な損傷、または継続的なストレスにさらされている。その結果、変異が起こる可能性が上昇する。(中略)遺伝という巡りあわせに対してできることはほどんとないが、食習慣とエネルギーバランスは、大いに社会的・文化的なものであり、変えられるものである」(『がん 進化の遺産』メル・グリーブス)(156ページ)

 

まとめると、我々は、進化の過程でがんになるリスクを抱えているが、そのリスクを上げるも下げるも日々の生活習慣によるところが大きいということである。

 

 

NHKスペシャル 病の起源 がんと脳卒中

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利己的な遺伝子 <増補新装版>

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わからないと思って付き合う

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人を理解することは難しい。

そもそも、自分自身のことさえ理解しているかわからないのに、

他者のことを理解するのはとても困難なことだと思う。

 

上の写真は沖縄タイムスで毎週月曜に連載されている「うちの火星人」。

家族6人のうち、父を除いて、母と子どもたち5人が発達障害を抱えている家族の日常を紹介しているもの。

 

2018年3月18日の記事のエピソード。

夫がカゼ気味で体調が悪いときに「だんだん気分が悪くなってきた」ことを伝えると、妻はそれを理解できず、どんな感覚か聞いてくる。

では、そんな妻は体調が悪いときにどう感じているのか。

「ゼロか100しかなくて中間がないから、元気か倒れるかしかない」

「気がついたら(いきなり限界がきて)トラックにひかれたみたいな気分になる」

トラックにひかれる感覚というのは、ほとんど体験したことのない極端な体調不良なので、何か悪い病気ではないかという恐れから強いストレスがあるという意味とのこと。

 

これは発達障害という特性からのもので、事例としては極端かもしれない。だが、発達障害でなくてもいろんな感性を持った人たちがいて、いろんな考え方を持っている。私だってそのひとりだ(そもそも発達障害は人が線引きしたものであり、その境界は曖昧だ)。

そんななかで、そもそもわかり合えるというのは、どんな感覚なのだろうか。

 

わからないと思って付き合うほうが、人はわかり合えると思って付き合うよりはるかに安全でしょう。(アドラー心理学入門 岸見一郎 169ページ)

アドラーによれば、そもそも相手を理解することは不可能であるという。しかし、それを前提としてなお、「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」(「個人心理学講義」189ページ)という意味での「共感」の重要性を説く(「アドラー心理学入門」171ページ)。

 

 

わからないけど、わかるための努力をする。

それをお互い続けていくことが大事ということだろうか。

 

でも、努力することも簡単じゃない。いろんな感情が邪魔をするから。

 

  

話はちょっと変わるが、「発達障害」という言葉には誤解や差別的なものを感じる。

このコーナーでは「発達凹凸」という言葉を使っている。

凹凸がある人は、社会生活を送る上で周囲とのトラブルを起こしやすいので、そうならないために周囲の理解や本人の努力が必要である。

しかし、いわゆる平均的な人と比べて、得意なことと不得意なことにはっきりとした特徴があるということで、それに「障害」という言葉を使うのは不適切ではないだろうか。

 

 

うちの火星人 5人全員発達障がいの家族を守るための

うちの火星人 5人全員発達障がいの家族を守るための"取扱説明書"

 

 

 

個人心理学講義―生きることの科学 (アドラー・セレクション)

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アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

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思いやることも、思いやられることも、縦の関係に繋がる

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アドラー心理学入門 岸見一郎

 

「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」の著者がアドラー心理学がブームになる前の、1999年に書いた本。

 

上の勇気二部作は哲学者と若者の対話を通してアドラー心理学を理解していく形式になっていたため、普通の解説的なものを読んでみたくて手に取った。

 

結論としては、あまり目新しいものはなかった。

新書で字数も少ないので、理解のしやすさは勇気二部作のほうが上だと思う。

 

そのなかで、勇気二部作には書かれていなくて(たぶん)、特に印象に残ったものを少しだけ。

 

アドラー心理学では、安易に承認欲求を満たすこと(ほめること)を否定する。

それは、人は承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになり、他者の人生を歩むことになるから。

 

また、自分は他者の期待を満たすために生きているのではないということを主張するのであれば、当然、他者も自分の期待を満たすために生きているわけではないことを認める必要がある。

 

そして、他者の行動や生き方が気に入らなくても、それは他者の課題であり、そこに介入してはならない。対人関係のトラブルは他者の課題に介入することや自分の課題に介入されることによっておこるからである。

 

したがって、自分の課題は自分で解決することが基本である。しかし、人それぞれ能力には限界があるので、他者に依頼して助けてもらうことも必要だ。もっとも、他者は依頼すれば自分を助けてくれるかもしれないが、それはその人の善意であって、義務ではない。

これは、他者から自分の気持ちを察してもらったり、思いやられることを期待してはいけないということであり、黙っている限りは自分の思いは人に伝わらないということを意味している。

言葉を重視し、言葉でコミュニケーションをとる必要があるのだ。

 

察することや思いやられることを期待することの問題は、自分の意図を理解してもらえなかった場合、最後は攻撃的になって主張を通そうとするか、主張は引っ込めるけれども復習的になって終わることが多いことにある。

「会田雄二は、察しと思いやりの世界はうまくいくと最上の世界になるが、歯車が少しでも食い違うと収拾がつかない憎悪とひがみの世界を作り上げてしまう、と指摘・・・」している。(日本人の意識構造 会田雄二)

 

アドラーは人間関係は横の関係で考えることが必要で、縦の関係はトラブルの原因だと言っている。

思いやることも、あるいは思いやられることを期待することも、頼まれもしないのに手出し口出しするのと同様、すでに見てきた縦関係に他なりません。相手が自分では何もできないと見なすことであり、少なくとも、依頼することもできない、と見なすことだからです。(167ページ)

 

 

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

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日本人の意識構造 (講談社現代新書)

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沈黙 ~信仰、神とはなにか

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「沈黙」 原作 遠藤周作

     映画監督 マーティン・スコセッシ

 

今回は、まず映画を観て、次に小説を読んだ。

映画の「関ヶ原」は少し残念だったが、今回の「沈黙」は凄い映画だった。 

小説を読んだのは、映画では読み取れない何かがあるのかを確認するのと、世界観をじっくり感じてみたかったから。 

映画は小説の世界観を見事に表現していて、観終わった後も長く余韻が残った。

 

ストーリーは単純。江戸時代初期、島原の乱が平定され、キリスト教の弾圧は苛烈を極めていた。師であるフェレイラ教父が弾圧により日本で棄教させられたことを聞いた教え子の若い司祭二人は、危険を冒し日本に潜入する。何とか日本人信徒と会うことができるが、すぐに捕らえられ、拷問を受け、棄教するというもの。

 

 主人公の司祭ロドリゴは、過酷なキリスト教弾圧を目の前にして、神がなぜ沈黙しているのか、何度も問いかける。あるいは神は存在しないのではないかとも。

結局、自分の信仰を守るか、自らの棄教によって基督の教えに従い苦しむ人々を救うかの究極の選択を迫られ、ロドリゴは踏絵を踏み、転ぶ(棄教する)ことによって人々を救うことを選択する。

ロドリゴが足を上げたとき、鈍い重い痛みを感じた。そのとき踏絵の中の基督は、「踏むがいい。お前のその足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。

 

小説の最後、ロドリゴとキチジロー(ロドリゴを裏切って役人に売りつけた切支丹)の会話は奥深い。

(心の)弱い者と強い者がいて、強い者はどんな責め苦にも耐え、殉教し天国にいくことができるが、自分のような弱い者は役人に責められれば踏絵を踏むしかなく苦しんでいることをキチジローは訴える。

ロドリゴは、「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」と答える。

彼は踏絵に足をおろしたとき、「激しい悦びと感情」を抱いたが、それをキチジローに説明することはできなかった。

 彼は踏絵を踏むことによって、本当の神への愛を理解した。

「今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。」

 

私自身、キリスト教や宗教の知識があまりないので、このやり取りを自分のなかに落とし込めているとは言えないが、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」の神への愛の記述のなかに、近いものがあると思ったので引用する。

真に宗教的な人は、もしも一神教思想の本質に従うならば、何かを願って祈ったりしないし、神にたいしていっさい何も求めない。子どもが父や母を愛するように神を愛したりしない。そういう人は、自分の限界を知るだけの謙虚さを身につけており、自分が神について何一つ知らないということを承知している。そのような人にとって、神は、進化のもっと前の段階で、人間が自分たちの熱望するものすべて、すなわち精神世界、愛、真実、正義といったものを表現していた象徴となる。そういう人は、「神」が表象するさまざまな原理を信仰する。すなわち真理について思索し、身をもって愛と正義を生きる。彼はこう考える。人生は、自分の人間としての能力をより大きく開花できるような機会を与えてくれるという意味においてのみ価値があり、能力の開花こそが真に重要な唯一の現実であり、「究極的関心」の唯一の対象なのだ、と。そして、彼は神について語らないし、その名を口にすることもない。したがって、神を愛するということは(彼がこの表現を用いるとしたら)最大限の愛する能力を獲得したいと願うことであり、「神」が象徴しているものを実現したいと望むことなのである。(110ページ)

 

遠藤周作キリスト像は「同伴者イエス」と言われていて、全く同じ意味ではないかもしれないが、的外れということもないのではないだろうか。

 

 

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沈黙 (新潮文庫)

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愛するということ 新訳版

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2月トレーニングまとめ

 

走行距離:545.15km

走行時間:19h50m

獲得標高:3791.1m

消費エネルギー:10836.2kj

 

かなり乗ってない。

そろそろちゃんと練習しないと・・・(^^;

 

JBCFおきなわロードレース 2日目 E3

ちょっとだけ観戦。 

みんな頑張っいて、いい刺激になった。がんばろう。

 


MOV 1859

 

 

勇気二部作

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「嫌われる勇気」 「幸せになる勇気」  岸見一郎 古賀史健

 

トラウマは存在しない。あなたの不幸はあなた自身が「選んだ」もの。

すべての悩みは対人関係である。すべての喜びもまた、対人関係の喜びである。

 

アドラー心理学の本。青い本が先に出て、赤い本は続編という扱い。

言葉だけ拾っていくと、かなり過激で、誤解を与えかねないので、ここでうまく紹介できるかどうか。自分の理解もまだまだだが、とりあえず、部分的に紹介してみようかな。

 

トラウマの否定

まず、アドラーはトラウマを否定する。

フロイト的なトラウマの議論(原因論)ではなく、今の「目的」を考える。

例えば、就職などでうまくいかず、ひきこもっている青年がいたとした場合、その青年は不安だから外に出られないのではなく、外に出たくないという「目的」から不安の感情を作っていると考える。

職場の人間関係で考えれば、「あの上司がいるから、仕事ができない」(原因論)、「できない自分を認めたくないから、嫌な上司をつくり出す」(目的論)。

 

すべての悩みは対人関係

すべての悩みは対人関係から生じるという。

例えば、自分のことが嫌い(劣等コンプレックス)であることは、他者とは関係ないことのように思えるが、その背景は、他者から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを過剰に怖れているから。「目的」は他者との関係で傷つかないことにあり、自分のことをあらかじめ嫌いになることで、他者から嫌われたときの精神的な保険や理由にしている。

 

他者の課題を切り捨てる

では、対人関係の悩みにどう対処していくか。その入り口が「課題の分離」。

あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込んだり、自分の課題に土足で踏み込まれることによって起こる。

なかなか勉強しない子どもがいる。授業は聞かず、宿題もやらない。それに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者(子ども)の課題に対して、土足で踏み込むような行為である。これでは衝突し、勉強をしないか、身にならない勉強をすることになる。

自分のことが嫌いな劣等コンプレックスの人は、他者が自分をどう思うかは他者の課題であることを理解することが必要。

 

共同体感覚

対人関係の入り口は「課題の分離」だが、そのゴールは「共同体感覚」である。

これはアドラー心理学の鍵概念であるが、その理解は難しい。

他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられること、という。

 共同体感覚に必要なのは、「自己受容」、「他者信頼」、「他者貢献」。

ありのままの自分を受け入れ(自己受容)、対人関係を良くし、横の関係を築き(他者信頼)、人々を信頼し、自分の仲間だと思えるからこそ、「他者貢献」することができる。人は他者貢献できていると感じるときに幸福を感じる。自分の居場所があると感じられるのだ。

 

問題行動の5段階

アドラーは賞罰を否定するが、その前段として、問題行動の5段階を理解するとわかりやすい。

 子どもの教育で考えれば、まず、知らないのであれば教える。叱責は必要ない。

意図的に問題行動を起こしている場合は、その「目的」を考える。

問題行動には5段階ある。

  • 第1段階「賞賛の欲求」・・・いい子を演じる、やる気や従順さをアピールする。
  • 第2段階「注目喚起」・・・いたずらなどをして目立つ、できない子として振る舞う
  • 第3段階「権力争い」・・・親や教師に反抗する、非行に走る、不従順、無視。
  • 第4段階「復習」・・・相手が嫌がることを繰り返す。ストーカー、自傷行為、ひきこもり
  • 第5段階「無能の証明」・・・なにごとにも無気力、簡単な課題にも取り組まない。

第1と第2段階はほめてもらったり、目立ったりすることで、「共同体のなかで特権的な地位を得る」ことを目的としている。対処法は、「特別」でなくても価値があることを教えていく。尊敬をもって(後述)。

第3段階はその戦いに勝利することによって、特権的な地位を得ようとする。権力争いを挑まれたら、乗らない。叱責はもちろん、不愉快な表情をすることでも土俵に乗っていることになる。法に触れる場合のみ、法で対処。

第4段階はきつい。賞賛の欲求、注目喚起、権力争い、これらはすべて「もっとわたしを尊重してほしい」という、愛を乞う気持ちの表れ。そうした愛の希求がかなわないと知った瞬間、人は一転して「憎しみ」を求めるようになる。「憎悪という感情のなかで、わたしに注目してくれ」というものだ。

ストーカーは相手に迷惑がかかっていることは百も承知。良好な関係に発展しなくても、「憎悪」や「嫌悪」によって相手とつながろうと画策している。

第5段階は、これ以上傷つかないために、自分には能力がないと信じ込むようになる。

第4と第5は当事者での解決は難しい。しかし、多くの問題は第3段階でとどまっているため、そこから先に行かせないことが重要だ。

 

叱ってはいけない、ほめてもいけない

まず、怒ることと叱ることを区別し、叱ることを肯定する考え方もあるが、アドラーは否定する。暴力的な「力」の行使によって相手を押さえつけようとしている事実にはなんら変わりがないからだ。暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーションの手段でしかない。

また、人は叱責を受けたとき、その力に従うのと同時に、「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が無意識に働く。

では、ほめることはどうか。

ほめることによって、承認欲求が満たされることになるが、承認欲求にとらわれると他者から認めてもらうことを願うあまり、他者の要望に沿った人生を生きることになってしまう。承認には終わりがない。永遠に求め、永遠に満たされないのだ。

さらに、ほめることは、能力のあるものが能力のないものにすることであり、それは「縦の関係」につながる。共同体感覚は他者を信頼する「横の関係」でなければならない。

「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くことを教えていかなければならない。

 

 「わたしであること」の勇気

「わたしであること」に価値を置く、その一歩を踏み出す勇気づけをするために、相手を「尊敬」する。

「尊敬」とは、「人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力」(エーリッヒ・フロム)

「特別」である必要はない、ありのままでいいことを理解できれば、問題行動に移っていくこともない。

 

 

・・・ まとめられそうにないのでここまで(ここまでもまとまっていない(-_-;))。共同体感覚は難しい。

この後、最重要である愛のタスクの話があるのだが、力不足でまとめきれないので、また機会があればそのときに。

この本自体は哲学者と青年が討論する形式になっており、スラスラ読める。だが、アドラー心理学の中身は深く濃く、何度も反芻しないと理解できない。

とっつきやすいのは目的論や課題の分離。誰か困った人がいるとして、その人が問題行動をとる目的が何かを考えると、心に余裕ができるし、ふっかけられていることが、誰の課題なのか分離できると、対処しやすくなる。

赤い本は青年が教師になって壁にぶち当たっているところをテーマにしているので、教育関係の方は何らかの示唆が得られるのではないだろうか(先に青い本を読まないと理解しにくいはずだが)。

それと、アドラー心理学は「勇気づけの心理学」と言われ、多くの人の悩みを軽くするが、劇薬の部類に入ると思うので、本当に心が弱っている人には逆効果になるかもしれないことに注意する必要がある。

 

最後に、共同体感覚、横の関係などに疑問をぶつけた人にアドラーが答えた言葉。

「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたに関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」

 

次期権力者をめぐる人間模様

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関ケ原」 司馬遼太郎

 

太閤秀吉亡き後、天下簒奪に向けて周到に謀略をめぐらす家康。太閤の遺命に従い、豊臣家の安泰を守ろうとする三成。その周りで、次期権力者は家康であるとみていち早くすり寄る者、東西どちらにつくのが得策か様子見する者、さらには漁夫の利を得ようと活動を始める者など、関ヶ原の戦いの起点から三成の最後までを描いた歴史小説

 

太閤に恩を感じながらも自家のため家康に与していく人間臭さ、人間模様が細かく描かれていて面白い。合戦の描写も迫力満点。

印象に残ったのは、三成の最後。自身の正義を貫き通した。

 

小説読み終わって、ちょうどタイミングよく、映画「関ヶ原」がレンタル開始されたので、そちらも観てみた。

 

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う~ん・・・

2時間半でこのスケールを描くのは無理があるのか。

まず、各大名の人間関係や心の動きがわかりにくい、というか描くには時間不足。

予備知識がないと何が起こってるのかわからないかも。

小早川秀秋はだいぶ印象が違う。裏切り行動の開始は家康の鉄砲隊による威嚇ではなかった。

福島正則は影が薄い。小山軍議から関ヶ原前哨戦までに果たした役割の大きさ(黒田長政の働きかけ)、太閤に恩を感じながらも三成憎しで東軍に属して猪突猛進していく様子などは描ききれていない。

大谷吉継の獅子奮迅の戦ぶりはもう少し見たかった。

岡田准一石田三成。イケメンすぎるのかなぁ。へいくゎい者(横柄者)と言われ、諸大名に嫌われていた部分を描こうとしてはいたが、あまり感じられない。

 

辛口になってしまったが、映画では人間模様を描くにはどうしても限界があるはず。

映画と小説は全く別物と考えて楽しんだほうがよいだろう。

 

ちなみに、司馬遼太郎作品、私のなかの不動のツートップは、「燃えよ剣」、「竜馬がゆく」です。