死を通じて見つめる人生の意味 ~イワンイリッチの死

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イワン・イリッチの死

トルストイ

 

生まれたら、必ず死ぬ。
自分自身もこの世に生を受けた以上、必ず死を迎える。
頭ではわかっているが、実際に自分のことと受け止めることは難しい。

 

 イワン・イリッチは帝政ロシアの官吏。

若いうちは、ある地方の県知事の秘書官のような地位について才能を発揮し、その後、裁判官に転身。最終的には中央裁判所判事という地位にたどり着く。

公務員というよりは、高級官僚といったほうがしっくりくるだろう。

 人柄は以下のように描かれている。

つまり才能に富んでいるとともに、快活で人がよく、おまけに社交的な人間であったが、しかし、己の義務と信ずるところは、厳格に実行していた。彼が自分の義務と信じていたのは、とりもなおさず、最高の地位を占めている人々の所信なのであった。(19ページ)

 

結婚もし、子宝にも恵まれた。

しかし、結婚生活は夫婦円満といえるようなものではなかった。

新婚のころは良かったが、妻は次第に何かにつけて彼を罵るようになった。

家庭での居心地が悪くなればなるほど、イワン・イリッチは仕事に没頭する。

 

イワン・イリッチが追い求めていたのは、官界での栄達と快適な私的生活だった。

夫婦仲はいまいちだったが、それが崩壊しないように処する術は身につけていた。仕事は手堅く、見事な処世術で栄達を勝ち取り、交友の範囲も立派で、不自由のない生活を手に入れていた。

社会的にはいわゆる成功者といっていいだろうし、本人もそれに満足していた。

 

しかし、ふとしたきっかけで不治の病に侵され肉体的な痛みに苦しむ。
そのなかで、自分の人生が全て虚偽だったのではなかったかと疑い、精神的にも苦しんでいく。

妻や娘、同僚や友人たちとの関係がいかに空虚なものであったか。

治る見込みがないのは明らかなのに、養生すれば良くなるという周囲の嘘。それに合わせて行動してしまう自分自身の嘘。

 

 世間の目から見ると、自分は山を登っていた。ところが、ちょうどそれと同じ程度に、生命が自分の足もとからのがれていたのだ……こうしていよいよ終わりがきたーもう死ぬばかりだ!

 それでは、いったいどうしたというのか? なんのためだろう? そんな事があるはずない! 人生がこんなに無意味で、こんなに穢らわしいものだなんて、そんな事のあろうはずはない! よし人生が真実これほど穢らわしい、無意味なものであるにせよ、いったいなぜ死ななければならないのだ? なぜ苦しみながら死ななければならないのだ? なにか間違ったところがあるに相違ない。(89ページ)

 

 勤務も、生活の営みも、家庭も、社交や勤務上の興味もーすべて間違っていたかもしれない。(中略)

 「もしそうだとすれば」と彼はひとりごちた。「自分に与えられたすべてのものを台なしにしたうえ、回復の見込みがないという意識をもちながら、この世を去ろうとしているのだったら、その時はどうしたものだ?」彼はあおむけになって、すっかり新しい目で自分の全生涯を見直しはじめた。(96ページ)

 

そして、イワン・イリッチは死ぬ2時間前に「本当のこと」はなにか自問をはじめる。


主人公が苦しみ、悶えて死んでいく描写は、凄まじい。
トルストイは一度死んだことがあるのかと思うほどだ。

 


冒頭でも書いたように、死を自分のこととして受け止めるのは難しい。
いつか死ぬものだと思ってはいても、いつの間にか死がきて、いつの間にか
終わっているというような感覚で捉えている自分がいる。
事件や事故など、死について日常的に感じる感覚は、ある意味劇的
一瞬で終わるものが多い。
あるいは、告別式に参列し、悲しんでいても、どこか他人事の自分がいる。

しかし、この小説を読むと、死はそんな簡単に過ぎていくものではないだろう
ということを実感させられる。
程度の差はあれ、死は徐々に迫り、苦しみをもたらすはずである。
そのとき自分はどのように死に向き合えるかである。

死を通じて人生の意味を見つめなおすきっかけになる小説だと思う。

物語の冒頭は、イワンイリッチの死を知った同僚の反応や告別式のシーンから始まるが、物語の最後まで読んだ後にこの部分をもう一度読むのがおすすめ。
死が他人事になっていることをより実感できる。

102ページと短いが、濃密な読書体験となる一冊だ。
 

 

※ この小説は、以前記事にした、黒澤明の「生きる」にもヒントを与えたといわれる。2つの作品を対比するのも面白い。

 

  

イワン・イリッチの死 (岩波文庫)

イワン・イリッチの死 (岩波文庫)

 

 

 

 

rj77.hatenablog.com

 

 

Bluetooth接続でZWIFTやるなら、心拍計はWahooのTICKR心拍数モニターが便利かも

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いろいろ訳あって、外で自転車に乗れない日々が続いている。
ここ1ヶ月ほどずっとローラーなので、一度は解約したZWIFTに再度加入してひたすらメニューをこなす日々だ。

 

さて、ZWIFTを再開するにあたり、ANT+ドングルをノートPCに接続してプレイしていたが、ノートPCの処理速度が遅く動きがカクカクすること、配線がわずらしいことから中古のipad air(初代)を購入し、Bluetooth接続でプレイしてみることにした。

 

結果、動きがなめらかになり、配線もスッキリ(というかなし)。
とても快適にプレイできるようになったのだが、一つ問題が発生した。
ZWIFTにBluetooth心拍計を接続すると、サイコンで心拍の表示がされなくなったのだ。

 

いろいろ調べてみると、Bluetoothは同時に二つのデバイスで受信できないようだ。

 

そこでWahooのTICKR心拍数モニターが活躍する。
この心拍計BluetoothとANT+両方に対応している。
なので、ipad airのZWIFTはBluetoothでデータを受信し、サイコンはANT+でデータを受信することによって、両方で心拍情報を保存することができるようになった。

 

ということで、ZWIFTをBluetooth接続で楽しみたい方にはオススメ。


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Wahoo TICKR心拍数モニター(iPhoneおよびAndroid用)

Wahoo TICKR心拍数モニター(iPhoneおよびAndroid用)

 

 

Body Battery機能が社会人アスリートの体調管理にいいかも? ~Garmin vivosmart4 インプレ

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 Garmin vivosmart4

 

社会人アスリートはとにかく忙しい。

真剣に競技に取り組めば取り組むほど忙しい。

やらなきゃいけないことはたくさんあるのに、トレーニングもする。

学生の頃とは違って、体力のピークをとっくに過ぎた身体は、適当なトレーニングではパフォーマンスを上げられない。かといって、トレーニングを頑張りすぎると、免疫力が落ちて体調を崩す。

体調を崩し周りに迷惑をかけると、周囲から「何のためにやってるの?」「競技辞めたら?」という声が聞こえるような、聞こえないような…

 

と、いうことで、食事、睡眠、サプリなど、体調管理にはとても気を遣うのだが、それでも体調を崩すことはよくある。

最大の原因はストレスだ。

 そのストレスを計測し、あとどのくらい自分のエネルギーが残っているかを表示してくれるのが、Gaminのアクティブトラッカー、vivosmart4だ。

 

 

vivosmart4の機能や特徴

主な機能や特徴は以下のようなものだ。

  • 身体のエネルギー量を表すBody Battery
  • 1日のストレス計測
  • 睡眠モニター
  • ステップ数に加え、上昇階数、消費カロリー値、週間運動量を記録
  • ウォーキング、水泳、サイクリングなどのワークアウトを記録
  • LINEやその他アプリの通知を表示
  • アプリGarmin ConnectでPCやスマホと同期
  • 軽量16.4g(レギュラーサイズ)

 

詳しくはメーカーサイトなどを参照していただくとして、今回書くのは、数あるライフトラッカーやスマートウォッチとは一線を画す(と思われる)、BodyBattery機能だ。

 

BodyBattery機能とは

Gaminの説明によると、

ボディバッテリーとは、心拍変動、ストレス、アクティビティなどのデータを使用して予備エネルギー量を測定できる機能です。この機能は1から100の数字でユーザーのエネルギーレベルを表示します。

要するに、あなたのエネルギー残量はあとこのくらいですよ、と表示してくれる機能だ。

使い始めて2カ月ぐらい経つが、これが思いのほか役立っている。 

実際の体調に近い気がするのだ。

 

スマホには一日の経過が以下のように表示される。 

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5時過ぎに起床、仕事に行って、夕方にトレーニング(固定ローラー)をした一日。

山のようなラインがBodyBatteryの推移、その下の青いギザギザは休息、オレンジ色はストレスだ。

起床時にはバッテリーは95あったが、寝る前には34まで低下している。

だいたいこれが普通の一日。

 

週末はエネルギー消費が激しい(普通の人と違って)。

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3月9日、土曜のチーム朝練に行き、ストレスMax、エネルギー残量急降下、その後はなんとか横ばいに近い状態でしのぎ、睡眠で100まで回復させるも、3月10日の日曜朝練(南部練)でまたまた急降下、13時前後に1時間仮眠をとるも、下がりに下がって、最終的には16まで低下した。
 

精神的なストレスもしっかり把握してくれる

運動によるストレスは、心拍を把握することによって、ある程度計算できるのはわかる。だが、このvivosmart4は、運動によるものだけでなく、精神的なストレスも把握してくれるのが素晴らしい。

 

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2月15日金曜日、トレーニングはしていない。

通常通りの仕事の日だが、14時過ぎから結構なストレスのかかる会議があった。

オレンジのギザギザがしっかり出ている。

チーム練にも負けないくらいのストレスだ。

この日は、業務終了後は飲み会があり、そこでもそれなりに気をつかったようで、遅くまでストレスのオレンジが表示されている。

確かに疲れた一日だった。

 

で、帰宅は10時過ぎ、就寝は11時過ぎだったような気がするが、土曜のチーム朝練に行くために4時前に起床した一日は以下のようになった。

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睡眠時間が若干短く、アルコールが入っていたために睡眠の質が悪かったと思われる。結果、51までしか回復せず。最後は6!(笑)

 

精神的なストレスを把握できるのはなぜか

先ほど引用したGaminの説明では、「心拍変動、ストレス、アクティビティなど」のデータを利用してエネルギー量を測定すると書いてある。

「ストレス」というのが曖昧な表現である。そもそも「ストレス」をどのように測っているのか、という疑問が浮かぶ。

 

ここからは憶測の話になる。

実は、このvivosmart4、海外で販売されているものは、血中酸素飽和度(SpO2)を計測できる。この血中酸素飽和度(SpO2)は、心臓から全身に運ばれる血液(動脈血)の中を流れている赤血球に含まれるヘモグロビンの何%に酸素が結合しているか、という値だ。要するに、身体のすみずみまで酸素がいきわたっているかどうかを測るものである。

しかし、日本では薬事法の関係で、その機能が「停止」されている

Gaminの説明は以下のようなものだ。

血中酸素飽和度(SpO2)の計測機器は、現在、日本国内においては薬事法管理医療機器(クラスⅡ)に分類されています。
このため、海外ではその機能を有する製品であっても、日本国内ではお使いいただけないよう機能を停止しております。

この「停止」という表現だが、あくまでも値を表示させないという意味ではないかというのが個人的な推測だ。

実際には計測していて、BodyBattery機能の基礎データとして、利用されているのではないか

言い換えれば、停止させたのは血中酸素飽和度の値を表示させることだけで、心拍変動、血中酸素飽和度、アクティビティのデータを用いて、エネルギー量をはじき出しているのではないか、ということである。

 

例えば、精神的なストレスがかかると、自然と呼吸が浅くなることが多いと思うが、それによって、血中酸素飽和度が下がり、vivosmart4がストレスと認識できるというところだと思っている(あくまで推測)。

 

【2020.4.17追記】 

憶測、推測として裏でSpo2を計測しているのではないかと書いたが、この部分はあくまでも、そうだったらいいな程度の話である(期待させてしまったら申し訳ない)。

ただ、BodyBattery機能を裏で支えているアルゴリズムGarminに提供しているは、フィンランドFirstbeat社というのはとても重要だ。

この企業はヘルスケアやスポーツ分野での心拍データの研究に20年以上もの実績を有し、Garminだけでなく、他のウェアラブルバイスメーカーにも技術提供している。

以下のリンク先では、同社の技術について説明されている。

ウェアラブルデータ活用の黒子、フィンランドFirstbeatが明かす心拍数から分かること | Digital Innovation Lab

Spo2を計測していなかったとしても、同社の技術があれば、様々なストレスを計測できるのも納得がいく。

 

【2021.5.9追記】

ようやく国内でも血中酸素濃度の測定機能が追加された。

Garmin 「血中酸素トラッキング」機能への対応を4月下旬以降に対象のウェアラブルデバイスで順次開始 | プレスリリース | ニュース | Garmin | Japan | Home

ソフトウェアの更新だけで可能になるということで、ちょっと得した気分だw

(ハードの機能が制限されていただけでもある)

 

Spo2測定について、この記事ではいろいろ憶測を書いたが、

こんなことを考えていたということを

記録として残すために記事としてはあえてそのままにしておく。

 

 

数値をどのように活用するか

自分のエネルギー残量を見るだけでも結構楽しいのだが、今のところ以下の2点を意識して使っている。

レーニングメニューの選択、実施の有無

平日は帰宅後にローラー練というパターンだが、エネルギー残量によって、量や質をコントロールしている。場合によっては、中止する。

もっとも、BodyBatteryのエネルギー残量だけを頼りに判断しているわけではない。あくまでも、自分自身が感じている主観的な体調と、エネルギー残量を比較衡量しての判断だ。

 

何にストレスを感じているか(ストレス・コーピング)

精神的なストレスを計測できるので、自分が何に対してストレスを感じているかを可視化できる。可視化できると、それに対する対処法を考えることもできる

あの会議ではストレスを感じていたけど、何にストレスを感じていたのか、次同じようなことがあった場合、どのような心構えでいれば、ストレスを減らす(活かす)※ことができるだろうか、という思考ができるのである。

その出来事の受け止め方(認知)を適切にして、ストレスを減らす(活かす)メンタルヘルス的に重要で、コーピング・スキルと呼ばれたりしている。

※ちなみに、ストレスは減らすというより、活かすことが重要。ストレス=悪ではない。 

 

まとめ

自転車にパワーメーターをつけていると、TSSやIFといった指標を用いて体調管理に活かすことができるが、そこで考慮されているのはトレーニングの負荷だけだ。

仕事や普段の生活によるストレス、その他もろもろのことは計測できない。

プロだとTSSやIFで管理できるかもしれないが、社会人アスリートだと厳しい。

そういう意味で、vivosmart4は、社会人アスリートの体調管理に役立つのではないかと思う。

 

 補足

バンドの長さで、サイズ展開されていて、レギュラーとラージがあるのだが、私の手首周りが16cmぐらいで、ギリギリちょうどぐらい。17cm以上ある方だとラージがいいかもしれない(色はブラックしかないが)。

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 2019.7.13追記

ForeAthleteの各ニューモデルにもBody Battery機能が搭載された。

ランニングやトライアスロンをする方も使いやすくなったかな。

GARMIN(ガーミン) ForeAthlete 245 Black Slate 010-02120-42

GARMIN(ガーミン) ForeAthlete 245 Black Slate 010-02120-42

 

 

 

 

圧倒的状況における人間の考察 ユダヤ人心理学者のナチス強制収容所の体験記 ~夜と霧 

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 夜と霧

ヴィクトール・E・フランクル

  

 フランクルウィーン大学フロイトアドラーに師事して精神医学を学び、ウィーンの精神病院で働いていたが、1942年にナチス強制収容所に入れられた。

 

この本の原題は“Ein Psychologeerlebt das Konzentrationslager”

「心理学者、強制収容所を体験する」というような意味らしい。

  

 

感動の消滅

荷物の上にごろごろと折り重なるようなぎゅう詰めのなか、何日も昼夜ぶっ通しの移送の果てに列車がたどり着いたのは、アウシュヴィッツ

最初に行われるのは選別。

ほとんどの人がガス室送りになった。

そんな状況にあっても、人は希望にしがみつき、最後の瞬間まで、事態はそんなに悪くないだろうと信じる(これを恩赦妄想という)。

しかし人間としての尊厳を打ち砕くような扱いを受けるなか、彼らがまだもっていた幻想は、ひとつまたひとつと潰えていく。

 

収容されてしばらく経つと、感動の消滅が起こる。

 苦悩に満ちた経験をするなか、内なる感情を抹殺しにかかったのだ。

最初の頃は同じ被収容者がサディスティックに痛めつけられているのを見ると、目を逸らしていたのだが、そのうち、無関心に、なにも感じずに眺めていられるようになる。

 

感情の消滅と鈍麻は、毎日毎時殴られることにたいしても、なにも感じなくさせた。この不感無覚は、被収容者の心をとっさに囲う、なくてはならない盾だった。

感情の消滅は、精神にとって必要不可欠な自己保存メカニズムだったのである。

ただし、かなり感情が鈍麻した者でも、ときには憤怒の発作に見舞われる。それは、暴力やその肉体的苦痛ではなく、それに伴う愚弄が引き金になる

殴られる肉体的苦痛は、わたしたちおとなの囚人だけでなく、懲罰をうけた子どもにとってすら深刻ではない。心の痛み、つまり不正や不条理への憤怒に、殴られた瞬間、人はとことん苦しむのだ。だから、空振りに終わった殴打が、場合によってはいっそう苦痛だったりすることもある。(38ページ)

 

内面への逃避

精神的な生活を営んでいた感受性の強い人々は、困難な状況に苦しみながらも、精神にそれほどダメージを受けないことがままあった。逆説的だが、繊細な被収容者のほうが、粗野な人々よりも収容所生活によく耐えたのである。

 

収容所から工事現場への過酷な行進のなか、隣を歩いていた仲間が、自分たちの妻を思いやる言葉を発した時、フランクルは妻の姿を(心のなかで)まざまざと見た。

妻と語っているような気がし、妻が微笑み、まなざしでうながし、励ますのが見えた。

その微笑みは、その瞬間昇ってきた太陽よりもフランクルを明るく照らした。

そのとき、ある思いがわたしを貫いた。(中略) 愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへ救われること! 人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるといううことを、わたしは理解したのだ。(61ページ)

工事現場に着き、作業が始まるなか、フランクルは妻との語らいを続けていた。

フランクルはそのとき、あることに気付く。

そのとき、あることに思い至った。妻がまだいきているかどうか、まったくわからないではないか!※

 そしてわたしは知り、学んだのだ。愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的存在、つまり(哲学者のいう)「本質(ゾーザイン)」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「現在(ダーザイン)」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。(62ページ)

(※すでに亡くなっていた。) 

 

精神の自由

自分はただ運命に弄ばれる存在であり、みずからの運命の主役を演じるのでなく、運命のなすがままになっているという圧倒的な感情、加えて収容所の人間を支配する深刻な感情消滅。さらには空腹と睡眠不足からくる「いらだち」は被収容者心理の特徴だった。

収容所の日々は、内心の決断を迫る状況の連続だった。

それは、人間の独自性、精神の自由などいつでも奪えるのだと威嚇し、自由も尊厳も放棄して外的な条件に弄ばれるたんなるモノとなりはて、「典型的な」被収容者へと焼き直されたほうが身のためだと誘惑する環境の前に、跪いて堕落に甘んじるか、あるいは拒否するかという決断だ。

しかしそんな究極の状況でも、あたえられた環境でいかに振る舞うかという、人間としての最後の自由だけは奪えないという例は、一部の人たちだけではあるが、確実にあった。

生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようが、がんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、その一点にかかっていた。 

 おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげないなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味のある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。(113ページ)

 

生きる意味 

収容所では、1944年のクリスマスと1945年の新年の週に大量の死者が出た。

これは労働条件や食料事情からは説明できないものだった。原因は、被収容者が生きる意味を見失ったことによるものだと考えられる。多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるだろうという、希望にすがっていたのだ。

ニーチェの言葉は的を射ている。

「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」

 

では、「生きていることにもうなんにも期待がもてない」

こんな言葉にたいして、私たちはいったいどう応えたらいいのか。

 

必要なのは生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。

私たちが生きることからなにを期待するかではなく、生きることが私たちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している者に伝えていくのである。

生きるとは、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。

人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。

私たちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏付けされた、総体的な生きる意味なのである

 わたしたちにとって、「どれだけでも苦しみ尽くさねばならない」ことはあった。ものごとを、つまり横溢する苦しみを直視することは避けられなかった。気持ちが萎え、ときには涙することもあった。だが、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。(132ページ)

 

人間とはなにか

収容所の監視者のなかにも役割から逸脱する者はいた。

フランクルが最後に送られ、解放された収容所の所長、彼は親衛隊員だったが、こっそりポケットマネーからかなりの額を出して、被収容者のために近くの町の薬局から薬品を買って来させていた(後になって判明した)。彼は被収容者に暴力を振るうこともなかった。

いっぽう、同じ収容所の被収容者の班長は、時と場所を問わず、手段も選ばず、手当たり次第に被収容者を殴った。

ここで言えるのは、収容所監視者であること、あるいは逆に被収容者であったことをもって、ひとりの人間についてなにも語ったことにならない、ということだ。

いっぽうは天使で、もういっぽうは悪魔だった、という単純化はつつしむべきだ。事実はそうではなかった。 

 わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。(145ページ)

 

解放後の苦しみ

被収容者は自由を得て、もとの暮らしに戻っても不満と失意に苦しめられる

ふるさとに帰って気づくのは、そこかしこで会う人たちが、せいぜい肩をすくめるか、おざなりの言葉をかけてくるかだ。彼の不満は膨れ上がり、一体何のために自分はあのすべてを耐えしのんだのだ、という懐疑に悩まされることになる。

収容所で唯一心の支えにしていた愛する人がもういない人間は哀れだ。

夢にみた憧れの瞬間が今や現実になったのに、思い描いていたのは違っているのである。

町の中心部から路面電車に乗り、何年も心のなかで見つめていたあの家に向かい、呼び鈴のボタンを押す。数え切れないほどの夢のなかで願い続けた、その瞬間…

しかし、ドアを開けてくれるはずの人は開けてくれない。その人は、もう二度とドアを開けない……。

失意という体験では、自分がゆだねられていると感じる運命が問題なのだ。すなわち、自分は考えられるかぎりの苦悩とどん底にたっしたと、何年ものあいだ信じていた人間が、いまや苦悩は底無しで、ここがもっとも深いということはないのだと、そしてもっともっと深く、もっともっと落ちていくことがありうるのだ、と見定めてしまうのだ……。(155ページ)

 

 収容所にいたすべての人びとは、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、またそんなことをこもごもに言いあったものだ。わたしたちは、幸せなど意に介さなかった。わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは、幸せではなかった。にもかかわらず、不幸せへの心構えはほとんどできていなかった。少なからぬ数の解放された人びとが、新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、のりこえることがきわめて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服するのは容易なことではない。そうは言っても、精神医をめげさせることはできない。その反対に、奮い立たせる。ここには使命感を呼び覚ますものがある。(156ページ) 

 

 

本書は東日本大震災後の被災地の書店でよく売れたという。

 

自分自身ではどうすることもできない圧倒的な状況において、それでも生きていく、生きていくことに意味を見出す、とはどういうことか。

生きることとは、苦しむことと、死ぬことにも裏付けられた総体的なもの。

厳しい内容だが、この本からは、希望も感じることができると思う。

 

 

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

 

復帰前の沖縄を感じることによって見えてくるもの ~宝島

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541ページもあるが、一気に読み終えた。

 

舞台は1952年から1972年、米軍占領下の沖縄。

戦後の混乱のなか、食料も生活必需品も不足しているなかで、米軍基地に侵入し、その豊富な物資を奪って生活の糧にしていたのが戦果アギヤー。

1952年、おんちゃんと呼ばれるコザの英雄が戦果アギヤーの仲間たちとともに嘉手納基地に侵入した。しかし、米軍や憲兵隊に見つかり、激しい追跡を受け、おんちゃんは行方不明になってしまう。

おんちゃんと行動をともにしていた、親友のグスクは警察官に、弟のレイはやくざ、恋人のヤマコは教師になって、それぞれおんちゃんの行方を捜していく。

 

主人公たちの生きざまを追いながら、宮森小学校への米軍機墜落、嘉手納基地のB52墜落事故、毒ガス移送などの史実が描かれいて、物語の最後はコザ暴動へとつながっていく。

この小説の素晴らしいのは、これらの史実を同じ時代に生きていたかのように感じることができるところだ。

復帰後に生まれた私は、これらの事件、事故を知識として知ってはいても、どこか他人事のような気がしていたかもしれない。

しかし、小説のなかで追体験していくことによって、先輩たちの感じていたことを感じることができるような気がする。

 

以下、印象深かったシーンを一部抜粋。

佐藤首相とニクソン大統領が沖縄の返還に合意したことを伝えるテレビの実況中継が流れているなか、米兵に関わる悲劇に巻き込まれた親子の話を聞いたグスクの言葉。

「基地の問題はうやむやにされて、核や毒ガスもなくならない。戦闘機は堕ちつづけて、娼婦の子は慰みものにされる。この返還で喜べるのはうしろめたさに格好のついた日本人(ヤマトンチュ)だけさ」

 

 戦災孤児として育ち、3人と繋がるようになるウタとヤマコの会話。

「だってこの島が日本(ヤマトゥ)になって、おいらたちになんのいいことがあるのさ。基地はなくならないんだろ、アメリカーもごめんなさいしないんだろ。おいらの母ちゃん(アンマー)にしたことも、キヨにしたことも償わせなきゃならんがあ」

「島の人はたちは“なんくるないさ”って言うんだろ。それでみんな忘れんぼ(ソーヌガー)になっちゃう。だけどそれじゃあかわいそうやさ、キヨが、母ちゃん(アンマー)が」

「あのね、それは……忘れなきゃ生きていけなかったから。それだけの目に遭ってきたから。宴会(スージ)にも占い(ハンジ)にもなんにでもすがって、過去をふっきろうとして、そのうえで出てきた“なんくるないさ”はただの“なんくるないさ”じゃないんだよ」

 

復帰前と現在の状況はだいぶ異なってきているが、本質的な部分は変わっていない。

 

沖縄の基地問題については様々な意見があっていい。

民主主義、自己決定権、人権、アイデンティティー、平和、キーワードはいろいろある。

ただ、対等な関係ではないこと、そこは法律や制度うんぬんではなく、人として、素直に疑問を持つべきところであると思う。

 

 

第160回直木賞受賞 宝島

第160回直木賞受賞 宝島

 

 

人は誰でも幸福になることができる。そのために必要なのが共同体感覚。 ~アドラー心理学 その4

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アドラー心理学の概要その4。

その1では、人は誰もが同じ世界に生きているのではなく、自分が意味づけした世界に生きていること、過去の出来事で現在の状況をすべて説明することはできず、そこには隠された目的があることなどを書いた。

その2の内容は、人間を動かす原動力となっている「劣等感」と「優越性の追求」、そしてそれが行き過ぎた場合に「劣等コンプレックス」や「優越コンプレックス」により起きる問題、克服するためには、他者へ関心を向ける、他者への貢献に関するものだった。

その3では、すべての悩みは対人関係にあるが、他者を敵だと考えがちな人は、自己中心性や承認欲求が強すぎること、他者に関心を持ち、最終的に誰が責任を引き受けるか課題を分離することが必要であるという話だった。

 

 

対人関係の最終的な目標 

前回、課題の分離については、対人関係の最終的な目標ではないと書いたが、ゴールとなるのが、「共同体感覚」である。アドラー心理学のカギとなるものだ。

人は誰でも幸福になることができる。そのために必要なのが共同体感覚だ。

 

 われわれのまわりには他者がいる。そしてわれわれは他者と結びついて生きている。人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することはできない。もしも一人で生き、問題に一人で対処しようとすれば、滅びてしまうだろう。自分自身の生を続けることもできないし、人類の生も続けることはできないだろう。そこで、人は、弱さ、欠点、限界のために、いつも他者と結びついているのである。自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である。

(第一章 人生の意味「人生の三つの課題」)

  

では、具体的に共同体感覚における共同体とはどのようなものなのか。

(共同体感覚における共同体とは)さしあたって自分が所属する家族、学校、職場、社会、国家、人類というすべてであり、過去、現在、未来のすべての人類、さらには生きているもの、生きていないものも含めた、この宇宙全体を指している。

 

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100分de名著「人生の意味の心理学」より

なんとも壮大な話になっていて、一般的な心理学というものからはかけ離れたものに感じるだろう。

実際にアドラーがこの概念を使い始めたとき、心理学に科学ではないものを持ち込んでいるとして批判されたという。

ただし、アドラーはこの共同体は「到達できない理想」であるとも言っている。

 

共同体「感覚」とは

大過ぎて戸惑うところだが、共同体感覚の「共同体」は一応そのようなものとして、その次に「感覚」とはどのようなものか。 

 

アドラーは、英語の著作の中で(母語はドイツ語)、共同体感覚を「social interest」と翻訳した。「他者への関心」ということだ。

「自分への関心(執着)」(self interest)を「他者への関心」(social interest)に切り替える。他者への関心=共同体感覚を持っている人は、他者に貢献し、貢献感を持つことができるとした。それが幸福につながるというのである。

 共同体感覚を持つために必要なことは三つある。

 

自己受容

まず一つ目は「自己受容」である。

ありのままの自分を受け入れる。いいところも、悪いところも。

まずはそのまま、ありのままがスタート地点である。

自分を受け入れるためには、「自分は特別によくなくても、悪くなくてもよい」と考えることがポイントだ。

 

他者信頼

二つ目は「他者信頼」。

他者を無条件に信頼すること。条件をつけないこと。

人生では、信頼していた相手に裏切られたり、傷つけられたりすることもある。

しかし、それを恐れて対人関係のなかに入っていかなければ、誰とも深い関係に入っていくことができず、幸せになることはできない。

 

他者貢献

三つ目は「他者貢献(感)」である。

自分が役に立てている、貢献していると感じられるときに、そういう自分に価値があると思え、自分を受け入れることができる。

ここで重要なのは、他者へ貢献していると感じられるということである。

行動レベルで貢献しているということではない。行動レベルで考えてしまうと、赤ちゃんや寝たきりの老人は貢献できていないことになってしまう。

あくまでも存在レベルで考える。

赤ちゃんは何もできないが、成長していく姿を見るだけで、親は嬉しいのであり、他者へ貢献しているといえる。

寝たきりの親が生きていてくれることで、家族は嬉しく思うのであり、これも他者へ貢献しているといえる。

自分についても、生きていることで他者に喜びを与え、貢献できていると感じることが必要だ。

 

以上の三つは円環構造になる。

他者へ貢献していると感じられれば、そんな自分に価値があると思える。自分に価値があると思えれば、自分を受け入れることができる。貢献感を持つことができるためには、他者を敵ではなく、仲間として信頼していることが必要だ。

図示すると以下のようになる。

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そして、これら三つを実践していくためには、 「勇気」が必要となる。

ありのままの自分を受け入れる「勇気」、傷つくことを恐れず、他者を仲間と信じ、貢献していく「勇気」だ。

 

勇気づけ

このような勇気を持てる援助をすることを、アドラー心理学では「勇気づけ」という。

勇気づけという言葉は、他者に何かをさせようと働きかけることを連想させるが、あくまでも援助である。勇気は本人が、自分自身で持つしかない。 

 

勇気づけの基本となる言葉は、「ありがとう」だ。 

感謝の言葉をかけられれば、共同体へ貢献していることを感じることができる。

 

以下、勇気づけのポイントや方法を少し紹介する(「アドラー心理学を語る4」野田俊作より)。

貢献に注目する

「君は本当に有能だ」「えらい、よくやった」、これは相手の能力や勝ち負けということに注目している。自己への関心、執着を育てがちで、今回はうまくいっても、次に失敗したときの挫折感は大きくなる。

そうではなく、共同体への貢献に注目する。

「君のおかげでとても助かったよ」と声をかけるのが、勇気づけに繋がる。

 

過程を重視する

学校でいい成績をとってきた子どもに「いい成績だね、よかったよ。嬉しい」と言うことは、結果を重視したものになりがちだ。いい成績を取れさえすれば手段は何でもいいと思ってしまうかもしれないし、悪い成績をとると勇気をくじかれる。

ここでは、プロセス、過程を重視し、「努力したんだね、すごく頑張ったね」と声をかけたい。

 

 成果を指摘する

励ますつもりで出来ていない部分を指摘することがあるが、それも勇気をくじくことがある。「全体としてはよくできているけれども、この部分がだめだな」ではなく、「ここの部分はよくできたように思う」というような言い方をしたい。

 

成長を重視する

「ほかの子よりもよくできているね」ではなく、「この前よりも上達しているね」と言いたい。

他者と比較するのではなく、本人の成長に注目する。

 

相手に判断を委ねる

「ここはよくないよ、こうしたほうがいいよ」ではなく、「あなた自身はどこが気に入っているかな、どういうふうにすればいいと思っているかな」。

善悪をこちら側で判断して押し付けるのではなく、相手の主体的な判断を育てる。

 

「意見言葉」を使う

主観的な意見に過ぎないものを事実として言うことは、しばしば相手をくじけさせる。

「それは間違っている」「それは正しい」ではなく、「うん、そのやり方は正しいと思うな」「そういう言い方には賛成できないな」と、自分の主観的な判断であることを全面に出したほうがいい。

 

 共同体感覚の広がり

 人は誰でも幸福になることができる、そのために必要なのが共同体感覚であるとして、共同体感覚の意味やそのために必要な勇気づけについて書いてきた。

話を少し戻して、共同体感覚が過去、現在、未来にまたがり、そして人類以外のものにまで広がることをどう考えるか。

寝たきりの病人について、存在そのもので家族が嬉しく思うことで貢献していると書いたが、そもそも現在の行動や存在だけが、貢献であると考える必要はないだろう。

例えば、その病人の方が、元気で健康な頃、自分の子どもや職場の後輩に自分自身の経験や知識、そして想いを伝えていたとする。それは「愛」と言ってもいいかもしれないが、子どもや後輩のなかにそれは受け継がれていき、次の世代に伝わっていく。過去の行為が、現在も息づき、現役世代が受け継ぎながら貢献している。これは、現役世代だけではなく、病人の方の現在の貢献とも言えるのではないか。

病人の方の過去の行為や存在が、現在の人々、そして将来の世代に貢献すると考えることができるのである。

そもそも私たちが生きているこの社会は、過去の数多の先人たちの努力により成り立っているはずだ。

また、些細なことだが、買い物をするときにエコバックを持参することは、誰のためなのだろうか。自分や家族だけのためではないし、社会のためと言ってしまえば、そのような感じもするが、環境のことを考えると、人類だけのためではないだろう。

 

理想だけが現実を変える力を持つ

アドラー第一次世界大戦に従軍した悲惨な経験から、どうすれば戦争のない世の中になるかと考えた。

そのなかで共同体感覚の概念が生まれ、人々が自分だけに関心を持つのではなく、他者に関心を持ち、他者に貢献しようと思えることが必要だと説いた。

そして、そのためには教育が重要であるとして、子どもたちの教育に熱心に取り組んだが、すべての人間は対等であり、横の関係であることが重要であるとした。親と子、教師と生徒、上司と部下、すべて横の関係であり、人間の価値に上下はなく、誰もが同じ権利を持っているので、誰かが誰かを手段として扱うことはできないのである。

ほめることや叱ることに否定的なのは、それが自然と縦の関係になりやすく、他者をコントロールしたり、虐げることに繋がるからであった。

 

最後に、100分de名著「人生の意味の心理学」で岸見氏は以下のように述べている。

 アドラーのいう「共同体感覚」は理想であり、すべての人が他者を仲間と見なして、互いに協力しあう世界が、そう簡単に出現するとは思えません。しかし、実現していないから理想なのであって、理想だけがこの現実を変える力を持っているのです。現実はこうなのだと現実を追認するだけでは世界は変わりません。今後、アドラーの思想に触れて、対等であるとは何なのかと考える人が増えていけば、世界はいい方向に向かっていくはずだと私は考えています。そのためには、自分は日々の生活の中で何ができるかを考えていかなければなりません。

 

 

 あと一回、補足的なものを書くかな…(未定)

 

 

勇気づけの方法 (アドラー心理学を語る4)

勇気づけの方法 (アドラー心理学を語る4)

 

 

 

悩みの源泉は対人関係にあるが、生きる喜びや幸せもまた、対人関係にある ~アドラー心理学 その3

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前回は、人間を動かす原動力になっている「劣等感」や「優越性の追求」について書いた。これらがあるからこそ、人は今よりも優れた存在になろうと課題に立ち向かったり、努力したりする。しかし、それが強すぎると逆に課題から遠ざかろうとする。

前回の記事で、「課題」という言葉を何度か使ったが、アドラーは人生で直面する課題を「ライフタスク」といい、仕事のタスク、交友のタスク、愛のタスクがあるとした(最近はここに自己や、精神世界を加える考え方もある)。

このライフタスク、簡単にいうと、対人関係の課題といっていいと思う。

今回はその対人関係について。

 

 

すべての悩みは対人関係

アドラーは、「すべての悩みは対人関係の悩みである」と考えた。

もし、自分がこの宇宙で一人で生きているのであれば、そこに善悪はなく、言葉も不要である。自分の外見も気にならないはずだ。

しかし、誰か一人でも他者がいるなら、対人関係を考えなくてはならなくなる。

 

対人関係の問題は、他者を自分の行く手を遮る存在、「敵」と見なすことから生まれる。これは、親子関係、夫婦関係、友人関係、職場の対人関係すべてに言える。

教えたとおりにやってくれない、やってほしいことがあるが気づいてくれない、指示に従わない、いつも嫌なことを言われるから避けたい、こういった思いが積み重なると、次第に相手を「敵」と見なすようになってしまうのだ。

 

なぜそう思ってしまうのか。

その1で触れた目的論で考えると、「他者との関係に入っていきたくない」という目的があるからということになる。

「敵」のなかに入っていくと、摩擦が生まれ、嫌われたり、裏切られたりして傷つく可能性があるため、それを避けるのだ。

 

しかし、対人関係は悩みの源泉ではあるが、生きる喜びや幸せも、対人関係のなかにある

幸せになるには、対人関係を避けるのではなく、まず、敵だと思っている他者に対する意味づけを変える必要がある

 

「自分が世界の中心にいる」という誤り

他者を敵だと考える人の多くに共通しているのが、「自分が世界の中心にいる(いたい)」という意識を持っていることだ。

自分が世界の中心だと考えてしまう人は、子どもの頃に甘やかされて育った経験を持っていることが多いが、アドラーは甘やかしの危険について次のようにいっている。

 

 甘やかされた子どもは、自分の願いが法律になることを期待するように育てられる。(中略)その結果、自分が注目の中心でなかったり、他の人が彼[女]の感情に気を配ることを主な目的にしない時には、いつも大いに当惑することになる。

(第一章 人生の意味「子ども時代の経験」)

 

幼い頃に親に甘やかされ、何でも与えられて育つと、やがて自分がなんの努力をしなくても、他者から与えられることを当然と思い、他者が自分に何をしてくれるかにしか関心がない人間に成長してしまう。

そういう人間は、自分が望むことを人から与えられているうちは機嫌がいいが、そうでなくなると、(自分の意に沿った行動をさせるために)不機嫌になったり、他者に攻撃的になったりする。

 

承認欲求

自分が世界の中心であると考えて育った人は、ほめられたり、注目されてきたために、「承認欲求」が強くなりやすい。(訳者の岸見氏は承認欲求を持つようになるのは、賞罰教育による影響もあると考えている。)

(※個人的には、承認欲求は誰にでもあるが、強すぎることが問題だと思う。)

承認欲求が強すぎる人は、ほめられない(承認されない)とわかると、適切な行動をしなかったり、ほめられる(承認される)ために、不正行為を行ったりする。

 また、怒られそうならやるし、怒られないならやらないということにもなる。

承認されなくても何かをしなければならない場面は人生の中に多々ある。

岸見氏によれば、介護は承認欲求がある(強い)人にはつらいものになるという。

なぜなら、親から「ありがとう」という言葉をかけられることは期待できないからだ。

 

仕事では、裏方や人が嫌がることをしなければならない仕事、職位が上がれば上がるほど、 認められることは少ないだろう(よいしょは別として)。

そんな仕事をしている人が、褒められたり、認められることを求めるようになると、仕事は苦役になってしまう。

 

脱却する方法

では、承認欲求や世界の中心に自分がいるという意識から脱却するためにはどうしたらいいか。

まず一つ目は、他者に関心を持つことだ。

自分にしか関心がない人は、他者の発言や行動を見ても、もしも自分だったらどうするだろうかという自分目線でものを考えてしまうので、多くの場合、正しく他者を理解することはできない。

(限界はあるが)「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」よう努めなければならないとアドラーはいっている。

 

次に、他者は自分の期待を満たすために生きているのではないことを知ることだ。

他者からよく思われないことを怖れて、他者の期待を満たそうとする人は、自分の人生ではなく、他者の望む人生を歩んでしまうことになる。自分の人生を生きるのであれば、他者との摩擦は必ず起こるし、嫌われることもあるだろう。

自分の人生を生きる決心をすれば、他者から承認される必要はなくなる

同じ理由で、自分が他者の期待を満たすために生きているのでないとすれば、同じ権利を他者にも認めなければならない。

このことを理解できれば、他者が自分の思うようなことをしてくれなくても、不愉快に思ったり、憤りを感じることは少なくなるだろう。

 

「課題の分離」

三つ目は「課題の分離」だ。

あることの最終的な結末が誰に降りかかるか、その責任を最終的に誰が引き受けなければならないかを考えるのが課題の分離である。

 

子どもが勉強をしないことに悩む親は多いが、勉強をすることは誰の課題か。

勉強をしなくて困るのは誰か、その責任を引き受けるのは誰か。

子どもである。

勉強は親ではなく、子どもの課題だ。

 

対人関係のトラブルは、他者の課題に踏み込んだり、踏み込まれることによって起こる。

親が「勉強しなさい」ということは、子どもの課題に踏み込んでいることになるのだ。

だから、たいていの場合は、反発して勉強しない(やっても、やったふりだったり、気が入っていない)。

 

親ができるのは、子どもが勉強を自分の課題と認識し、取り組む決意をしたときに、その環境を整える(援助する)ことだ。

また、前回の記事の「優越性の追求」のなかで少し触れたが、勉強は自分だけのためにするのではなく、他者に貢献することに繋がること、他者に貢献することの素晴らしさを教えていくことも親ができることだろう。

しかし、勉強するかしないかは、あくまで子どもの課題である。

子どもは、親の期待を満たすために生きているわけではないのだ。

 

ときには課題を共有することも必要

課題の分離というと、自分の課題は自分で解決するしかない、というとても厳しい話に聞こえる。もちろん厳しい面もあるが、必ずしもそれがすべてではない。

 

そもそも、課題を分離することは、対人関係の最終の目標ではない

現状は、糸がもつれたような状態になっているので、何が誰の課題かを見極めたうえで、自分だけでは解決できない問題は他者に協力を求めていい。

これをアドラー心理学では「共同の課題にする」という。

 

子どもの勉強でいえば、最近の成績のことについて話したいという。

話の内容を予見し、身構えるかもしれないが、共同の課題にするためには、手続きを踏むことが必要だ。

また、このような話がしやすくなるよう、日ごろから関係を良くしておくことも大事になる。

ここで、共同の課題にしようといいながら、自分の思うように子どもを操作、支配しようとしていないかには注意を要する。

 

 

「課題を分離することは、対人関係の最終の目標ではない」と書いたが、では最終の目標は何か。ここで、「共同体感覚」という最も重要な概念がでてくる。

次回は共同体感覚、勇気づけなどについて書く予定。

 

 

意味づけを変えれば、過去、今、未来が変わる ~アドラー心理学 その1 - ◎晴輪雨読☆

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人それぞれ一歩ずつ前へ進む 「劣等感」と「優越性の追求」 ~アドラー心理学 その2 - ◎晴輪雨読☆

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人は誰でも幸福になることができる。そのために必要なのが共同体感覚。 ~アドラー心理学 その4 - ◎晴輪雨読☆

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