なぜほめてはいけないのか。アドラー心理学の自立、愛とは。

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以前勇気二部作ということで記事を書いたが、理解不足、消化不足で中途半端な内容になっていたので、「なぜほめてはいけないのか」を中心に、「幸せになる勇気」の後半部分を織り交ぜながら、自分なりのまとめをしてみる。この本の後半部分ではフロムの「愛するということ」の引用が多数あり、アドラーとフロムのミックスのようなものになるかな。

 

 

なぜほめてはいけないのか

子育てであれ、組織におけるマネジメントや人材育成であれ、「ほめて伸ばす」、「承認をする」など、承認欲求を満たすことは基本的なことだと考えられていると思う。

しかし、アドラーはそれを真っ向から否定する。

なぜか。

承認欲求にとらわれた人間は、他者から認めてもらうことを願うあまり、いつの間にか他者の人生を生きることになるから。

そして、承認には終わりがない。永遠に求め、永遠に満たされない。

ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっとほめられること」を求める。その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになってしまう。

 

問題行動の5段階

具体的にはどんな問題が生ずるのか。

アドラーは、承認欲求にとらわれた人間が陥いる問題行動を、そこに隠された「目的」に注目し、5段階に分ける。

第1段階「称賛の欲求」

 例えば、親や教師に向けて「いい子」を演じる。組織であれば、上司や先輩に向けて、やる気や従順さをアピールする。

 これは一見問題行動ではないように感じるが、隠された目的はあくまでも「ほめられる」ことであり、自らが所属している社会(共同体)で「特権的な地位を得る」ことにある。

では、親や教師、上司や同僚がいっさいほめなかったらどうなるか。

不満を抱き、意欲を失うだろう。「いいこと」をしているのではなく、「ほめられること」をしているのだから。結局、「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」という世界観(ライフスタイル)を身につけていく。

さらに、周囲の期待する「いい子」であろうとするために、カンニングや偽装工作などの不正行為に出てしまうのもこの段階だ。

 

 第2段階「注目喚起」

ほめられなければどうするか。

とにかく目立ってやろう」と考えることになる。

子どもであれば、学業や部活では優秀な成績を収めることができないから、別の手段で目立とうとする。積極的な子どもだと、社会や学校のちょっとしたルールを破る、消極的な子どもだと、忘れ物を繰り返したり、泣いたりといった「できない子」として振る舞うことで注目を集めようとする。

大人では、ことさら仕事の忙しさをアピールしたり、自分に起こった不運をアピールすることも注目喚起といえるだろう。

これらの行動もその目的は共同体のなかで「特権的な地位を得る」ことだ。

 

 第3段階「権力争い」

ほめられることも、目立つこともできない場合、誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑むようになる。

戦いに勝利することによって、自らの力を誇示し、「特権的な地位を得」ようとするのがこの段階。

親や教師に反抗する、非行に走る、消極的な子どもであれば、勉強や習い事を拒絶する。

大人の場合、自分にとって得るものがあまりないにもかかわらず、些細なことで絡んでくるハードクレーマーはここに該当するだろう。 

 

第4段階「復習」

権力争いに挑んだのに、勝利を得られず、特権的な地位を得られなかった。

この場合、かけがえのない「わたし」を認めてくれなかった人、愛してくれなかった人に、愛の復習をする。

なぜか。

称賛の欲求、注目喚起、権力争い。これらは「もっとわたしを尊重してほしい」という、愛を乞う気持ちの表れ。そうした愛の希求がかなわないと知った瞬間、人は一転して「憎しみ」を求めるようになる

わたしを愛してくれないことはもうわかった。だったらいっそ、憎んでくれ。憎悪という感情のなかで、わたしに注目してくれ

そして、ひたすら相手が嫌がることを繰り返す。

典型的なものはストーカー。相手が嫌がっていることは十分理解している。それでも、憎悪によってつながろうとする。

自傷行為や引きこもりもその一環。自らを傷つけ、自らの価値を貶めることで、「こんな自分になってしったのはお前のせいだ」と訴える。当然親は心配するし、辛い思いをすることになる。子どもにしてみれば、復習は成功していることになる。

 

第5段階「無能の証明」

あらゆる手段を講じたが特別な存在になれなかった場合、「これ以上わたしに期待しないでくれ」という思いが、この段階につながる。

人生に絶望し、自分のことを心底嫌いになり、自分にはなにも解決できないと信じ込むようになる。 

そして、自分がいかに無能であるか、ありとあらゆる手段を使って「証明」しようとする。

 

問題行動への対処

では、このような問題行動にどう対応していけばいいのか。

第1段階と第2段階は共通している。

ほめてもらったり、目立ったりすることで、「共同体のなかで特権的な地位を得る」ことを目的としているのだから、「特別」でなくとも価値があるのだと、教えていく。

相手を「尊敬」するのである。

尊敬とは「人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力」、「人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうこと」である(エーリッヒ・フロム)。

「いいこと」をしたときに注目するのではなく、日ごろの些細な言動に目を向ける。その人の関心事に注目し、共感を寄せていく。

 

第3段階への対応は、挑まれても同じ土俵に乗らないことが大切。

論理でねじ伏せようとするのはもちろん、不快な表情をすることでも相手の土俵に乗っていることになる。

ここも「尊敬」で対応できるかもしれない。

法に触れる場合のみ法で対処する。

 

第4段階と第5段階は、当事者同士で解決することは難しく、第三者である専門家に対応をゆだねるしかないという。

 

もっとも、多くの問題は第3段階まででとどまっていて、そこから先に踏み込ませないことが私たちにとっては重要となる。

 

なぜ承認を求めてしまうのか

 承認欲求にとらわれることによって生ずる弊害は以上のようなものだが、そもそも人はなぜ承認を求めてしまうのか。

 

アドラー心理学では、人間の抱えるもっとも根源的な欲求は、「所属感」と考える。人は、孤立したくない、ここにいてもいいんだと実感したい。

どうすれば所属感を得られるのか。

それが、共同体のなかで特別な地位を得ることになりやすい。

しかし、先に述べたように、承認には終わりがない。問題行動にもつながる。

承認欲求から抜け出すには、「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くことが必要だ。

(わたしであることに価値を置くために、課題の分離、共同体感覚、自己受容、他者信頼、他者貢献ということを考える必要があるが、長くなるので今回は割愛。) 

 

子ども時代のライフスタイル(価値観)から脱却しなければならない

人が承認を求めるのは、人間の成長過程にも関わりがある。

基本的に子どもは、自分の力で生きていくことができない。親の愛があり、献身があればこそ生きていける。

そして子どもはそのことを理解する十分な知性を持っている。

子どもである「わたし」は、親から愛されてこそ、生きていくことができる

子ども時代の私たちはみな、命に直結した生存戦略として「愛されるためのライフスタイル」を選択せざるを得ないのだ。

「愛されるためのライフスタイル」は、いかにすれば他者からの注目を集め、いかにすれば「世界の中心」に立てるかを模索する、自己中心的なライフスタイルといえる。

  

しかし、いつまでも「世界の中心」に君臨することはできない。世界と和解し、自分は世界の一部なのだと了解しなければならない。

 

「愛される」から「愛する」へ

私たちは、「愛されるためのライフスタイル」から「愛するライフスタイル」を選択し直さなければならない。

なぜなら、愛することによって「わたし」から解放され、自立を果たすことができるからだ。

 私たちは生まれてからずっと、「わたし」の目で世界を眺め、「わたし」の耳で音を聞き、「わたし」の幸せを求めて人生を歩む。

しかし、ほんとうの愛を知ったとき、「わたし」だった人生の主語は、「わたしたち」に変わる

それは利己心でもなければ利他心でもない。

成熟した「愛」は自分の全体性と個性を保ったままでの結合である(フロム)。

そして、ふたりからはじまった「わたしたち」は、やがて共同体全体に、そして人類全体にその範囲を広げていく

生きている、ただそれだけで貢献し合えるような、人類のすべてを包括した「わたしたち」を実感する。 

  

なにも保証がないなかで飛び込むことが愛するということ。

だからこそ困難。

しかし勇気をもって飛び込まなければならない。

 

愛し、自立し、人生を選ぶ」こと、それによって承認欲求から解放される。

 

まとめ

最後の部分は若干抽象的になったが、しっかり書こうとすると、ボリュームがでてしまうので今回はここまでに。

 

「嫌われる勇気」に出会ったのは今年1月。

まだまだアドラー心理学の理解は十分ではないが、少しずつ理解が進むにつれ、自分の周りで起こっている人間関係の問題の背景が、ある程度見えるようになってきた。

そして、多くの問題が「承認欲求」にとらわれていることで生じているのではないかと感じている。わかりやすく単純なものもあれば、入り組んだものもある。

 

これまで、「心理学」というと、人の心を読んだり、操ったりするイメージを持っていて、あまり関心がない分野だった。

しかし、アドラー心理学は問題の背景をあきらかにしながら、「これからどうするか」を考えるものであり、そこに大きな魅力を感じる。

 

問題行動の背景に隠されている「目的」やその帰結を考えることによって、その問題が、相手の課題なのか、自分の課題なのかを分離することができる。そして、自分はどこまで対応すればいいか、自分ができることはなにか、自分は何をしてあげられるのか、なんとなく見えてくる。対応する際には心の余裕も生まれる。

また、自分自身が承認欲求にとらわれた思考をとっていないか、客観的に見ることもできる(そして反省する…)。

 

周囲の目が気になってしまう方や対人関係で悩んでいる方は、一度アドラーに触れてみることをおすすめしたい。