性格は、人がどんなふうにこの世界に向き合うかという方法 ~『性格はいかに選択されるのか』 アドラー心理学

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「私は生まれつき、こんな性格だから」

「短気なのは父親の血を受け継いでいるからだ」

「子どものときのあの出来事が原因で、私の性格はこうなった」

「ネクラ、ネアカ」

 

自分や他者の性格、あるいは自身が困難にぶつかったとき、このようなことを考えたり、話したりすることがある。

遺伝や育った環境、過去の出来事に「原因」を求める考え方だ。

 

性格はどのように形成されるのか。

アドラーは、性格は、遺伝や環境によって形成されるのではなく、自由意志によって選択されるものだしている。

本書は、アドラーの著作のなかから、性格に関して書かれていることを、訳者が抜き出し、注釈を加えるかたちでまとめられている(『性格はいかに選択されるのか』・アルフレッド・アドラー・岸見一郎 訳・注釈)。

 

 

 必要なのは真の原因を探しだすこと

自分が犯した過ちを、過去の(自分にとって)不幸な出来事や環境を原因にする人がいる。では、他の人も同じようなことを経験したら、同じ過ちを犯すといえるだろうか。

 

そうではないだろう。このような、実際には因果関係がないのに、因果関係があるかのように見なすことを、アドラーは「見かけの因果律」と呼んだ。

今となっては戻れない過去の出来事を持ち出したり、性格や遺伝を持ち出すことは、現状を変えられないことを前提にしているように見える。

 

過去の経験が「真の原因」であるかのように見たり、問題を事後的に説明することに終始するだけでは、心理学は無力なものでしかないだろう。必要なことは「本当の原因」を探すことにある。 

 

アドラーは、人の行動はすべて目標(目的)によって確定されるという。

人間は行動する際、一つの行動しか選べないわけではない。

自らの目標に沿って、行動を選択しているのだ。

 

例えば、「私は短気である」という人がいたとする。

その人は、他者を自分の意志に従わせるなど、なんらかの目的があって短気という手段(性格)を選択していると考えるのだ。

 

性格とは何か

 人は誰も一人で生きていけるわけではなく、対人関係から離れることはできない。この対人関係が、課題(人生の課題)として人の前に現れ、それに対してどのように取り組むか、どれくらい距離をとっているのかをアドラーは「性格」という言葉で理解している。

簡単にいうと、他者との関係にどのような対応をするかを「性格」と言っている。

 一人で生きているのであれば、性格は問題にならない。誰かの前で、誰かとの関係の中で、性格を決めている。生まれつき備わったものではないのだ。

性格は、「人がどんなふうにこの世界と向き合うかという方法」といえる。

  

共同体感覚

では、人が世界に向き合う方法とはどのようなものか。

 

人の根源的な欲求は共同体への所属感である。

 人は、社会、組織、家族など、なんらかの共同体に所属していることを感じていたい。

だが、その所属感を満たす方法は人によって異なる。

承認されることで満たすのもその一つだ。

 しかし、承認には終わりがなく、他者からの承認を求めるがゆえに、他者の望む人生を歩んでしまうことになる。

 

アドラーは、「他者に貢献すること」で所属感を満たす必要があるとしている。

それは、アドラー心理学のカギ概念である「共同体感覚」につながる。

 共同体感覚は難しい概念なので、ここでは簡単に、人と人が仲間として結びついていると感じられ、仲間に貢献していくことと理解するとしよう。

どんな性格を選ぶにしても、共同体感覚を基準として、それに照らして、どのように生きていくかを考えていきたいとうことなのである。

言い換えれば、人と人が仲間として結びついていると感じられ、仲間に貢献していくことを基本的な価値観として、世界に向き合いたいということだ。

  

性格のタイプ分け

以上は総論的なものだが、個別の性格のタイプ分けも紹介されている。

もっとも、アドラーは個人をタイプに分ける場合は、その人を型にはめて理解した気にならないよう注意しなければならないという。

あくまでも「個人の類似性について、よりよく理解するための手段」として利用する。

 以下いくつか紹介する。

 

楽観主義者

まずは楽観主義者。

比較的わかりやすい文章なのでそのまま引用する。

楽観主義者は、性格の発達が全体として真っ直ぐな方向を取る人のことである。彼らは、あらゆる困難に勇敢に立ち向かい、深刻に受け止めない。自信を持ち、人生に対する有利な立場を容易に見出してきた。過度に要求することもない。自己評価が高く、自分が取るに足らないとは感じていないからである。そこで、彼らは、人生の困難に、自分を弱く、不完全であると見なすきっかけを見出すような他の人よりも容易に耐えることができ、困難な状況にあっても、誤りは再び償うことができると確信して、冷静でいられる。(『性格の心理学』21~22ページ)

 

また、子どもの教育について以下のように言っている。

勇気があり、忍耐強く、自信を持ち、失敗は決して勇気をくじくものではなく、新しい課題として取り組むべきものであると考えるように教育する方がずっと重要である。(『子どもの教育』42ページ)

 失敗したときに、自分が弱く、不完全であるとみなしてしまえば、悲嘆に暮れたり、そのように反省しているように見せることはあっても、失敗の責任を取ることはしないだろう。

失敗しない人などいない。

大事なのは、失敗しても、深刻に受け止めず、新たな課題として受け止め、再びチャレンジできるものとして、勇敢に立ち向かう人を育てたいといううことである。

 

悲観主義

次に悲観主義

このタイプの人は、子ども時代の体験と印象から劣等感を持ち、あまりの困難のゆえに、人生は容易ではないと感じるようになったのである。正しくない扱いによってひとたび養われた悲観的な世界観の勢力範囲の中で、彼らのまなざしは、常に人生の影の面に向けられ、楽観主義者よりも、人生の困難を意識し、容易に勇気を失う(『性格の心理学』123ページ)

同じことを経験しても、それに勇気をもって立ち向かう人もいれば、立ち去ってしまう人もいる。

悲観主義者は、同じことを経験しても、そのまなざしは「常に人生の影の面に向けられ」、「人生の困難を意識」し、勇気を失って立ち去ってしまうのである。

 ここで重要なことは、何か困難があったから悲観主義者になるのではなく、課題に直面しないために悲観主義になるということである。

 

攻撃的性格

攻撃的性格においては、「虚栄心」がキーワードになる。

このような人が絶えず示す軽蔑や侮蔑をわれわれは価値低減傾向と呼んでいる。その傾向は、虚栄心のある人にとって、そもそも何が攻撃点かを示している。他者の価値と重要性である。それは、他者を没落させることで、優越感を創り出す試みである(『性格の心理学』49ページ)

なぜ他者の価値を落として優越感を得るのか。

それは、虚栄心が強い人には強い劣等感があるから。

自分が実際には優れていないことを知っているからこそ、他者の価値を落として(攻撃して)、自分が優れていることを強調しようとするのだ。

 人から認められようとする人は強い劣等感を持っているのである。

本当に優れている人であれば、誰かにそのことを認められる必要性を感じないし、自分が優れていることを誇示したりはしない。

 

虚栄心が強い人は、人からどう見られているかを気にしてしまうが、これは当然教育とも関連してくる。

教育に関して、訳者である岸見氏の注釈では、

親は子どもが間違った思い込みをすることがないよう気をつけなければなりません。試験でいい成績を取って嬉しそうにしていれば「嬉しそうだね」と声をかけてもいいですが、賞賛することは避ける必要があります。結果がよくなかったら声をかけられなくなりますし、また、次に頑張ればいいだけのことなのに、親の期待を裏切ったと思ってみたり、親が不用意に発する辱めの言葉に子どもが自分の人格まで貶められたと思い、落胆するかもしれないからです。勉強は真剣に取り組む必要がありますが、深刻になることはないことを教えたいです。

勉強は他者の期待を満たすためではなく、基本は自分のためだと書きましたが、だからといって自己満足すればいいというわけではありません。勉強することは決して親の期待を満たしたり、立身出世するためでもなく、他者に貢献するためのものであることを親自身がよく理解し、日頃からそのことを子どもに伝えたいのです。子どもがこのことをよく理解できれば、勉強はただ苦しいものではなく、勉強するための強い動機づけを得ることができるでしょう。(91ページ) 

 

さらに、貢献との関連で協力について、

競争しか知らない子どもは協力することはできません。しかし、協力ということを知っている人は、必要があれば競争することができます。どんなに成績が優秀でも、自分さえよければいいと思うような子どもになってほしくないのです。

そのような子どもに育てたくないのであれば、家庭の中で勉強さえしていればいいというような特権的な地位を子どもに与えないことが大切です。働いている親が家事もしているように、子どもも家事を分担しつつ、勉強もすればいいのです。家事を手伝うことで子どもは貢献感を持つことができますし、やがて今取り組んでいる勉強によっても貢献感を持てることを教えてほしいのです。自分のことしか考えない子どもは、勉強が苦しければすぐにやめてしまいます。(92ページ)  

 

その他、非攻撃的性格、原理主義者、卑屈、横柄、気分屋、不運な人などの性格や、怒りや悲しみ、嫌悪、不安などの情動について、さらに、兄弟の生まれた順番による性格のタイプ分けである家族付置などについても書かれているが、長くなるので今回は割愛(それぞれ面白い分析なので、折をみて記事にするかも)。 

 

まとめ

後半は引用を多くしたのでボリュームが出てしまったが、総論的な話に戻して考えてみる。

 

  • あるきっかけがあって、その際に自分でその問題に対する対処法(性格)を自分で選択した
  • 遺伝的にある特質があって、その特質を表現する方法(性格)を自分で選択した

 

個人心理学(アドラー心理学)が言っているのはだいたいこういうことだ。

遺伝や環境はあくまでもきっかけに過ぎないのであり、その性格を選択したのは本人なのである。

 このように書くと、自己責任と言われているようだが、そうではない。

自分で選択したものだから、選択し直すこともできる

ということが大事なのである。

 

もっとも、選択し直すのは大変である。新しい性格を選択すると、(人間関係の)課題に取り組む必要がでてくるし、未知の困難が待ち受けているかもしれない。

今の性格でいろいろ不都合が起こっていても、慣れ親しんだその性格によって起こる出来事は予測できる。

人は新しい環境を恐れてしまうのだ。

 

では、性格を選択し直すためには何が必要か。

勇気」である。

 

「貢献」と「勇気」、これは表裏一体と言っていい気がする。

貢献感を持つことができれば、勇気が湧いてくるし、勇気があれば、貢献感を持つことができる。

 

勇気に関する内容については、別の本(『勇気はいかに回復されるのか』)でふれられているので詳しくはまた今度紹介したい。