スポーツ栄養学をメカニズムから知る

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スポーツ栄養学 寺田新

この本は、スポーツにおいて「回復やパフォーマンスの向上にはこういう食事をとるべき」というような直接的な内容ではなく、「なぜそのように摂取すると効果的なのか?」というメカニズムを細胞レベル、分子レベルで解説することを目的として書かれている。

 

著者が東京大学教養学部後期課程統合自然科学科において担当している「スポーツ栄養学」の講義内容の一部をまとめたものということで、結構専門的である。

 

どのぐらい専門的かというと、例えば、グリコーゲンの説明。

グリコーゲンとは、グルコースが連結された状態のもので、エネルギー源として利用される際には、グルコース(正確にはリン酸が付加されてグリルコース1リン酸)へと再度分解される。グルコースをそのままの状態で細胞内に保存するのではなく、いったんグリコーゲンへと変換して貯蔵するのは、一つの大きな分子になることで、肝臓や骨格筋の細胞内の浸透圧を下げ、より多くの糖質を細胞内に貯蔵できるようにするためである。細胞内の浸透圧は溶けている物質のモル濃度に比例して増加するが、グルコースのまま貯蔵しようとするとモル濃度が増加してしまい、浸透圧を薄めるために大量の水が細胞内へ流入してしまうため、多くの糖質を貯蔵できなくなってしまう。一方、グルコースを連結すれば、モル濃度、さらには浸透圧が下がり、より多くの糖質を貯蔵できる(P75)。

 

こういった説明に図が挿入されていたりして、生物の教科書のような感じ。

 

そして、このような基本的な細胞レベル、分子レベルのメカニズムを説明したうえで、筋グリコーゲン量を高めるグリコーゲンローディング、運動前の糖質補給、運動後のグリコーゲン回復、運動におけるグリコーゲンの消費の抑制、さらには、糖尿病の原因、糖質制限食の効果などを説明していく。

糖質制限食については、「現時点においては糖質を制限するメリットは必ずしも大きくないかもしれない。」としている(P103))

 

 

同様の構成で、エネルギー消費量と摂取量、たんぱく質、脂質、運動中の水分摂取法とスポーツドリンクの効果、サプリメントの考え方などについて書かれている。

 

サプリメントの部分は、関心が強いだけに印象に残るところが多かった。

 

「ポパイのほうれん草」のように接種してすぐに、効果を発揮する物質は、間違いなくドーピング禁止薬物になるはずである。普段の食事に気を付けたうえで、ほんの少しの上積みを期待して摂取するのが、エルゴジェニックエイド(パフォーマンスの向上を期待して摂取するサプリメント)を使用するうえでの正しい姿勢である(P224)。

 

また、サプリメントエビデンスについては、

論文として世の中に公表されるデータの多くは、その物質に効果が認められたというポジティブな内容のものが多くなる。効果がないというデータが得られた場合、データやその内容に新規性がなく、世の中に対するインパクトも小さいため、研究者としてはそのデータを公表したいという動機が薄れていく。このことを「パブリケーションバイアス」と呼ぶ。したがって、「効果あり」というポジティブデータが論文になりやすい(P226~227。太字、アンダーラインはブログ主)。

 

本当にその情報が正しいか確認するのは容易ではない。

(基礎実験、疫学研究・観察研究、ランダム化比較試験(RCT)、メタ解析、系統的レビューなどの順で信頼性が高まるとのこと…)

 

そこで、一般の人でも確認できるサイトとして以下を挙げている。

「健康食品」の安全性・有効性情報〔国立研究開発法人 医薬基盤・健康・栄養研究所〕

オーストラリアのスポーツ科学研究所(英語…(>_<))

 

 

さて、結構専門的な本書であるが、メカニズムからスポーツ栄養学を学ぶ理由は何か。

 

健康の維持・増進、ダイエット法など、書店やインターネットには情報が氾濫している。「長生きするためには肉を食べるな」や「糖質の接種量を制限すべき」という情報がある一方で、「肉食系の人は長生き」、「米を食べないと不健康になる」といった本が販売されていたりする。しかも、このような本はいわゆる「専門家」といわれている人が執筆している本であり、いったい何を信じたらいいのか、どのように対処したらいいのか一般人が判断するのは至難の業である。

少なくとも、世の中すべての人に当てはまる理論はなく、個々人の様々な要因によって必要なものが変わるということは言える。

それらを総合的に考え、氾濫する情報の中から自分や身の回りの人に当てはまる情報を取捨選択する能力が必要となってくるが、身体に関する基本的な知識、栄養素の接種にともない体内・細胞内でどのような変化が生じているのか、といいうことを知っておくのはその第一歩になる(P6)。

 

食事を摂れば、それらがすべて身体に取り込まれ、身体の状況が一変するというわけではない。身体は一見安定した状態を保っているようで、実はその中身は少しずつではあるが絶えず入れ替わっている。これを専門用語では「動的平衡」という。したがって、食事で身体を変える。より良い方向にしていくというのは、そのような毎日行われながらも目に見えない動きの中において食事を整えることで、少しずつ身体の中身を入れ替え、スポーツ選手に適した身体、健康的な身体へと長い時間をかけてゆっくりとつくりかえていくことに他ならない(P4)。

 

 

DNA(デオキシリボ核酸)、TCA回路、ATP、モル濃度、浸透圧、ミトコンドリア、などなど、生物用語がたくさん出てきて、高校生物の勉強を思い出した(笑)

 

スポーツ栄養学: 科学の基礎から「なぜ?」にこたえる

スポーツ栄養学: 科学の基礎から「なぜ?」にこたえる

 

 

 

不滅の遺伝子

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利己的な遺伝子  リチャード ドーキンス

 

リチャード・ドーキンスはイギリスの進化生物学者、動物行動学者。

この本の初版の出版は1976年。今回読んだものは40周年記念版。

 

この本の内容を一言で説明すれば、

「すべての生物は、遺伝子を運ぶための生存機械だ」

ということになる。

 

この表現は、当時、多くの人に衝撃を与えたらしい。

それまでのダーウィンの進化論では説明できない、生物個体の利他的行動を説明できたという点で、パラダイムシフトをもたらした。

それまで個体レベルで考えられていた自然淘汰を遺伝子レベルで説明している。

 

ここでいう利他主義とは、自分自身の生存や繁殖の可能性が低くなっても、他者の生存や繁殖の可能性を高める行為のことである。

例えば、ミツバチのような社会性昆虫の場合、働きバチは不妊であり、自らは子孫を残さずひたすら女王バチに献身する。また、外敵が近づけば、自らの命を犠牲にして(針で刺すことによって絶命する)、攻撃する。

個体レベルで見れば、自分自身の生存や繁殖を犠牲にして、他者の生存や繁殖を高めていると言える。

なぜそのような行動をとるのか。

仮に働きバチが繁殖したとすると、その子に自分の遺伝子が引き継がれる割合は50パーセントであり、女王バチの繁殖を助けて自分の妹を助けると、その妹は自分の遺伝子の75パーセントを引き継ぐことになる(割合の計算は精子及び卵子作成時の減数分裂、交叉及びミツバチの繁殖方法によるもの。長くなるので詳細は省略)。

とすれば、働きバチとしては、自らが繁殖活動をするよりも、女王バチの繁殖を助けたほうが自らの遺伝子を多く残せることになり、自らの命を犠牲にしてでも、その他の沢山の妹たちの命を救うことが、自らの遺伝子(のコピー)の生存確率を上げることになるのである。

 

イルカが溺れた人間を助けたというよく聞く話については、以下のような説明をする。

イルカは群れで生活するが、その群れの中には近縁である個体がいる可能性が高い。したがって、自らの遺伝子の生存確率を上げるためには、溺れかけている群れのメンバーがいれば、助けることが必要だ。そのために必要な生存機械(個体)への規則(プログラム)は、「水面近くで息ができずにもがきまわっている細長い物体」がいれば助けろということになる。

イルカが人間を助けることがあるのは、その規則の誤用だという。

 

雄と雌の利害の対立も遺伝子レベルで説明する。

理論的には個体というものは、可能な限り多数の異性と交尾して、しかもそのつど子育てはすべて相手に押し付けることを「希望」する。少ない投資(精子または卵子の提供)で自らの遺伝子を多く残せるからだ。

しかし、雌は大型で栄養をたっぷり含んだ卵子の形ではじめから雄より多く投資しており、また、妊娠する種も多く、雌はどの子どもに対しても雄より深く「身を投じて」いる。

どのような種でも、雄の側には別の雌とさらなる子どもを作ろうとさせるような進化的圧力がある程度作用しているのはあたりまえと見るべきで、精子より卵子が大きいという事実が、雌の側が搾取されやすいということを生み出した基本的な進化的根拠なのだ。

もっとも、雌の側もこれに対抗するために、交尾に応じる前に雄が子どもに対して多量の投資をするように仕向けることによって、交尾後の雄を、もはや妻子を棄てても何の利益も得られない状態にする戦略(「家庭第一の雄を選ぶ」戦略)をとったりする。

このような対抗策に対して、雄がどのような形で対応するかは、種をめぐる生態学的な状況が決定する。

 

人間はどうか。

男性は一般的に乱婚的傾向、女性には一夫一妻制的な傾向がありつつも、基本的には一夫一妻制の社会が多い。

しかし、一方では乱婚的な社会もあるし、ハーレム制のような社会もある。この驚くべき多様性は、人間の生活様式が、遺伝子ではなくむしろ文化(ミーム)によって大幅に決定されていることを示唆しているという。

 

その他にも、親子間の利害の対立、動物の産児制限なども遺伝子レベルで説明している。

 

種のなかでどのような戦略をとる個体が多数を占めるようになるか、という部分は反復囚人のジレンマ、ノンゼロサムゲームなど、ゲーム理論の話がでてきて面白い。

 

人間の文化については、遺伝子以外の新たな自己複製子として、「ミーム」という概念を提唱している。

 

 

ドーキンスは「すべての生物は、遺伝子を運ぶための生存機械だ」と表現することによって、生物の世界を、遺伝子を単位とした生き残りのための非情な世界として描いた。動物の利他的行動のように見えるものは、遺伝子が生き残るための戦略に過ぎず、利他的行動を否定したことから、多くの人にショックを与え、たくさんの批判を受けたらしい。

ある人には三日間眠れなかったと告白され、また、遠い国のある教師は

私(ドーキンス)に避難がましい手紙を寄越し、この本を読んだ一人の女生徒が、人生は空しく目的のないものだと思い込み、彼のところに来て泣いたと言ってきた。この教師は、他の生徒が同じような虚無的な悲観論に染まることを怖れて、彼女に友達にはこの本を見せてはいけないと忠告したそうだ。(P20)

 しかし、ドーキンスの意図はそうではない。

おそらく、宇宙の究極的な運命には目的など実際存在しないだろうが、・・・私たちの生活を支配しているのは、もっと身近で、温かく、人間的な、ありとあらゆる種類の野心や知覚である。人生を生きるに値するものにしている温かさを、科学が奪い去ると言って非難するのは途方もない間違い・・・(P21)

 

また、人間については以下のような希望に触れている。

人間には、意識的に先見する能力という一つの独自な特性がある。

一方、利己的存在たる遺伝子に先見する能力はない。

私たちがたとえ暗いほうの側面に目を向けて、個々の人間は基本的には利己的な存在だと仮定しても、私たちの意識的に先見する能力(想像力を駆使して将来の事態を先取りする能力)には、自己複製子(遺伝子やミーム)たちの引き起こす最悪で見境のない利己的暴挙から、私たちを救い出す力があるはずだ(P344)。

 

 

矛盾に満ちた自分自身の思考や行動について、何かヒントのようなものをもらえた気がする。

 

 

 

利己的な遺伝子 40周年記念版

利己的な遺伝子 40周年記念版

 

 

 

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

 

 

 

OGK FLAIR L/XLの重さは?

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OGK FLAIR

 

4年ぶりにヘルメットを新調した。

これまでは、同じOGKのKOOFU。

 

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気になる重さは…

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194グラム。

ノーマルインナーパッド、ノーマルのアジャスターをつけての重量。

アジャスターを軽量のものに交換すると更に12グラム軽くなるらしい。

 

対するKOOFUの重さは…

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213グラム。

インナーパッドはA.Iパッド。

 

ノーマルパッド同士の比較ではないので、フェアではないけど、

19グラムの軽量化。

割合で考えれば、1割弱。

値段も比較的安いし、コスパ高い。

 

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幅はKOOFUとそんなに変わらないかな?

 

外で被るのが楽しみだ。

 

  

 

 

 

 

 

2018年4月トレーニングまとめ

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 2018年4月

走行距離:763.09km(̠-35.3km)

走行時間:27h10m(-4h36m)

獲得標高:4,976.6m(-784.9m)

消費エネルギー:14,955kj(-704kj)

※()は前月比

 

今月から上げていこうと考えていたが、仕事が忙しく、毎日ぐったり。

朝起きられないので平日の練習があまりできず、現状維持で精一杯だった。

 

今年度、仕事は落ち着くかなと思いきや、どうもそうではないような雰囲気…

仕事も自転車もペース配分をしっかり考えていかないとガス欠しそう。

 

現状維持じゃなくて、現状打破するにはどうしたらいいか。

ちゃんと考えないと。

 

 

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昨日(4月29日)は久しぶりの中部練。

参加者数も多く、いい雰囲気。

じっちゃくさん、印南さんに苦しめられ、かなりいい練習になった。

じっちゃくさんのダンシングは強烈だった。

帰路はトレインに乗ることもできず、家に帰ってぐったり。

 

 

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チキントマト煮

最近練習で疲れているときはこれ。一番回復しやすいと感じる。

作るのも簡単。トマト缶を使うから失敗しないし。

鶏むね肉、にんじん、玉ねぎ、ピーマン、ブロッコリー、しめじ、豆類をトマト缶で煮込んで、バルサミコ酢オイスターソース、赤ワインなどで味をととのえる。

鶏むね肉のイミダペプチド、しめじのオルニチンは疲労回復に一役買ってそう。

ブロッコリーのビタミン&ミネラル、トマト缶のリコピンなどなど、ほかにも体にいい栄養素をたくさん取れそう(自分で言い聞かせる、ここ大事(笑))

なにより脂質が少ないのも嬉しい。

 

そんなトマト缶、値段も安くて重宝するが、今朝の朝刊によると、グローバル企業による搾取が背景にあるとか。

 

 

スポーツ栄養学: 科学の基礎から「なぜ?」にこたえる

スポーツ栄養学: 科学の基礎から「なぜ?」にこたえる

 

 

 

トマト缶の黒い真実 (ヒストリカル・スタディーズ)

トマト缶の黒い真実 (ヒストリカル・スタディーズ)

 

 

黒澤明の「生きる」


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生きる 黒澤明

 

初めて黒澤映画をちゃんと観た。

 

タイトルは重いが、テンポ、雰囲気は意外に軽い、というかコメディに近い部分もある。

「生きる」ことは何かを主題に、人生の喜怒哀楽、美しさ、人間の滑稽さ、可笑しさが絶妙なバランスで表現されている。 

 

主人公は市役所の市民課長。定年まであと数年というところ。

市民の意見や要望を関係課に繋ぐのが主な仕事。

典型的なお役所仕事で、書類に目を通し、ハンコを押す毎日。

一見、忙しそうに働いている。

しかし、やってもやらなくてもいいようなことをし、忙しそうなふりをして時間を潰しているだけ。「彼は生きているとはいえない」(ナレーションの言葉)。

 

そんな主人公、体調不良で病院へ。

そこで自分が末期の胃がんであることを知る(確信する)。

 

口下手な主人公は胃がんであることを息子夫婦にも伝えられず、途方に暮れる。

 

コツコツ貯めた貯金を下ろして、高いお酒を飲み、夜の街に繰り出して派手に遊ぼうとするが全く楽しめない。

 

生きている実感がない。残された人生をどう生きればいいのか。

 そんな中、部下の若い女性職員が、役所の仕事はつまらないから辞める、決裁のためにハンコを押してくれと頼みに来る。

 

生命力あふれる彼女に魅力を感じる主人公。

彼女と一緒にいると楽しい。どうしたら残りの人生を楽しめるのか彼女から教えてもらえるのではないか。

彼女の生命力の秘密を知りたくて、しつこくすがる。

そこで彼女が発した一言。

「課長さんもなにか作ってみたら」

 

ここから主人公の行動が一変する。

無断欠勤していた職場に出勤し、仕事に手をつけはじめる。

ここでシーンが切り替わる… 

 

 

次のシーンは主人公のお通夜。

 助役を筆頭に各部長や主人公の部下など、市役所関係者がずらりと並ぶ。

 

話題の中心は、ここ数か月、主人公は人が変わったように仕事に打ち込んでいたが、自分の死期を知っていたのかどうか。

 

主人公が打ち込んでいた仕事は、公園建設だった。

ある地区の住民が公園の建設を求めていたが、道路、下水、環境衛生など各課をまたぐ様々な問題があり、たらい回しになって実現できないでいた。

主人公は関係各課に頭を下げ、調整して回り、公園建設を実現させたようだ。

 

しかし、誰も主人公の手柄だとは言わない。

助役は土木部長や公園課長の手柄だと言い、土木部長は入り組んでいた問題をとりまとめた助役が最大の功労者だと言い、結局みんなで助役を「よいしょ」する…

 

でも、主人公の努力を見ていた人たちは居る。

公園建設に感謝している住民が焼香に来て、すすり泣いて悲しんでいる。

助役や幹部連中は気まずくなり帰っていく。

 

市民課の部下たちが 、主人公が死期を知っていたことに気づいたとき、主人公の生きている最後の姿を見た(主人公は公園で亡くなっているのを発見されている)という警察官が焼香に来る。

 

警察官の見た主人公の最後の姿。

その回想シーンは、モノクロ映画であることを忘れるほど美しい。

 

雪の降る夜、完成した公園で一人ブランコに乗る主人公。

充実した表情を浮かべながら「ゴンドラの唄」を歌う。

いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 あせぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを…

 

 

主人公は日々を何となく過ごしてしまう私たちのことを指しているのだろう。

誰しも自分の人生に終わりがあることを知っていながらも、自分の死を他人事のように捉えている。

自分の死期を知ったら本当に今の過ごし方ができるだろうか。

限りある人生を大切に過ごしなさい、精一杯楽しみなさい、そんなメッセージを感じる。

 

それにしても、主人公が胃がんであることを確信するシーンはまるでコント。

助役を「よいしょ」するシーンは気持ち悪さを感じながらも、ニヤニヤ。

あと、お通夜の席で主人公の意志を継ぐぞ!と決意表明した部下たち。

そのあと職場ですぐに前言撤回行動!

お酒飲んでるときの決意表明なんかあてにならない(笑)

 

モノラル音声、セリフも一部早口、同じカットなのにセリフの音量が変わるなど、普通だったらなかなか集中できないが、140分があっという間だった。

いい映画だ。 

 

 

生きる

生きる

 

  

イワン・イリッチの死 (岩波文庫)

イワン・イリッチの死 (岩波文庫)

 

 

愛の技術

 

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愛するということ エーリッヒ・フロム

 エーリッヒ・フロム(1900.3.23~1980.3.18)はドイツの社会心理学精神分析、哲学の研究者。

代表作にファシズムの心理学的起源を明らかにした「自由への逃走」がある。

そのフロムが1956年に書いた本。原題は「The Art of  Loving」。直訳すると「愛の技術」。

 

60年以上前の本だが、古さを感じさせず、何度も読み返したい本だったので、ほぼ要約した(全体の流れを考え、重要だが思い切って省いた部分もある)。 

 

 

愛は技術である

フロムはまず、愛は「技術」であり、技術である以上、知識と努力が必要であると説く。

しかし人々は愛を学ぼうとしていない。

その理由は、

  • 愛の問題を能力の問題ではなく、「愛される」問題として捉えていること。
  • 愛の問題は「対象」の問題であって「能力」の問題ではないと思い込んでいること。
  • 恋に「落ちる」という最初の体験と、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを混同していること。

 にあるという。

愛の失敗を克服するには、愛の意味を学ぶこと、そのための第一歩は、愛は技術であることを知ること。その技術を習得するには、理論に精通し、習練に励み、それが究極の関心事にならなければならない。 

 

まず、愛の技術の理論的側面から論じる。

 

愛、それは人間の実存の問題に対する答え

どの時代のどの社会においても、人間は、いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するか、いかに個人的な生活を超越して他者との一体化を得るか、という問題に直面している。

これらの問いに対して、人は孤立感から逃れるために、「祝祭的な興奮状態」「集団等への同調」「創造的な活動」といった方法をとる。

だが、この問いに対する完全な答えは、人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち「愛」にある。

 

ここでいう「愛」は、共棲的結合という未成熟な愛ではない。

共棲的結合の受動的な形はマゾヒズムであり、能動的な形はサディズムである。マゾヒスティックな人、サディスティックな人、どちらも相手に依存していて、相手なしには生きていけない。

成熟した「愛」は自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間のなかにある能動的な力であり、人をほかの人々から隔てている壁をぶち破り、人と人とを結びつける。

 

また、「愛」は何よりも「与える」ことである。

自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与える。

もらうために与えるのではない。だが、与えることによって、他人のなかに何かが生まれ、何かを受け取ることになる。与えれば、他人をも与える者にし、たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かちあう。

 そういう意味で「愛」とは「愛を生む力」である。

 

あらゆる形の愛には共通して、「配慮」、「責任」、「尊敬」、「知」の基本的な要素が見られる。

愛における「配慮」は、愛する者の生命と成長に積極的に気にかけることである。

「責任」があるとは、他人の要求に応じられる、応じる用意があるという意味である。

「尊敬」とは、人間のありのままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力である。

そして、人を「尊敬」するには、その人のことを「知」らなければならない。

 

この「知」については、もう一つ愛との根本的な関係がある。

他の人と融合したいという基本的な欲求は、「人間の秘密」を知りたいという人間的な欲求と密接にかかわっている。

 愛とは、能動的に相手のなかへと入ってゆくことであり、その融合よって欲求が満たされる。ただし、ふつうの意味で「知る」のではない。結合の体験によって知るのであって、考えて知るわけではないのだ。

 

配慮、責任、尊敬、知はたがいに依存しあっているが、この一連の態度は成熟した人間に見られる。

成熟した人間は、自分の力を生産的に発達させる人、自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人、全知全能というナルシズム的な夢を捨てた人、純粋に生産的に活動からのみ得られる内的な力に裏打ちされた謙虚さを身につけた人である。

 

親子の愛 

 母親の愛は無条件である。

8歳半から10歳くらいの年齢に達するまで、子どもにとって問題なのはもっぱら「愛されること」である。

そして思春期にさしかかると、自己中心性を克服し、愛されるよりも愛するほうが、より満足のゆく、より喜ばしいことになる。愛することによって、生まれてはじめて、合一感、共有意識、一体感といったものを知る。

未成熟な愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は、「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。

 

一方、父親の愛は、条件付きであり、権威的である。

子どもを教育し、世界へとつながる道を教えるのが父親である。

生まれてから数年間は母親の愛が最重要だが、成長に従って、子どもは独立してゆき、母親との関係はその決定的重要性を失い、父親との関係が重要になってくる。それは、母親と父親の愛の本質的な性質の違いによるものである。

 

やがて、子どもは成熟し、自分自身が自分の母親であり父親であるような状態に達する。母親への愛着から父親への愛着へと変わり、最後に双方が統合されるというこの発達こそ、精神の健康の基礎であり、成熟の達成である。

 

愛の対象 

愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。

一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。

 

a.兄弟愛

兄弟愛は、もっとも基本的な愛である。

兄弟愛とは人類全体にたいする愛であり、排他的なところが全くない。

兄弟愛の根底にあるのは、私たちは一つだという意識である。

 

b.母性愛

 母性愛は子どもの生命と必要性にたいする無条件の肯定である。

子どもの生命の肯定には、

  1. 子どもの成長を保護するために絶対必要な気づかいと責任
  2. 生きることへの愛を子どもに植えつけ、「生きているのはすばらしい」といった感覚を子どもに与える態度

といった側面がある。

この側面は聖書の象徴にも表現されている。 

すなわち、約束の地(大地はつねに母親の象徴)は、「乳と蜜の流れる地」として描かれている。「乳」は第一の側面、すなわち世話と肯定の象徴である。「蜜」は人生の甘美さや、人生への愛や、生きていることの幸福を象徴している。

たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることのできる母親は少数である。「蜜」を与えることができるためには、母親自身が幸福な人間でなければならない。

 

異性愛では、離れ離れだった二人が一つになる。母性愛では一体だった二人が離れ離れになる。母親は子どもの巣立ちを耐え忍ぶだけでなく、それを望み、後押ししなければならない。

 

c.異性愛

異性愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つになりたいという強い願望である。

異性愛はその性質からして排他的であり、普遍的ではない。また、もっとも誤解されやすい愛の形である。

 

恋に「落ちる」という劇的な体験、突然親密になるというこの体験は、性質上長続きしない。

相手の人格の無限性を知れば、壁を乗り越えるという奇跡は毎日新たに起こるかもしれない。だが、たいていの場合、自分自身も他人もすぐに探検し、知りつくしてしまう(探検し、知りつくしたと思ってしまう)。

そういう人の場合、肉体的に結合することをはじめ、さまざまなことを試みて、孤立を克服しようとする。しかし、これらから得られる親密さは、時が経つにしたがって失われていく。その結果、まだよく知らない新しい人との愛を求める。

 

異性愛は、一人の人間としか完全に融合することはできないという意味においてのみ、排他的であり、それは所有欲に基づくものではない。

異性愛の一つの前提は、自分という存在の本質から愛し、相手の本質と関わりあうことである。

 

誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。

もし愛がたんなる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束にはなんの根拠もないことになる。

感情は生まれ、消えていく。もし自分の行為が決意と決断にもどづいていなかったら、私の愛は永遠だなどと、どうして言い切ることができよう。

 

以上のことから次のような見解に達する人もいるかもしれない。

愛は意志と決断の行為であるから、当事者二人が誰であるかは問題でなく、結婚が他人によって決められたものであろうと、自分たちの選択であろうと、ひとたび結婚したら意志に基づく行為と愛の持続を保証すべきである、と。

しかしそれは、人間の本性も異性愛パラドックスに満ちていることを見落としている。

私たちはみな「一者」だが、一人ひとりはかけがえのない唯一無比の存在である。

兄弟愛という意味ではすべての人を同じように愛するが、一人ひとり異なるから、異性愛はきわめて個人的な要素を必要とする。

したがって、異性愛は個人と個人が引きつけあうことであり、特定の人間どうしの独特のものであるという見解も正しいし、異性愛は意志の行為にほかならないという見解も正しい。いや、もっと正確に言えば、どちらも正しくない。

それゆえ、異性愛はうまくゆかなければ簡単に解消できる関係であるという考え方も、どんなことがあっても解消してはならないという考え方も間違っている。

 

d.自己愛

私自身も他人と同じく私の愛の対象になる。

自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊敬・責任・理解(知)に根ざしている。

 

利己主義と自己愛とは同じどころか、正反対である。

利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎる。

利己的な人は、自分を愛していないために、空虚感と欲求不満から抜け出すことができず、それをなんとか埋め合わせ、ごまかそうとしているのである。

 

e.神への愛

神への愛も孤立を克服して合一を達成したいという欲求に由来する。

 

 真に宗教的な人は、一神教思想の本質に従うならば、何かを願って祈ったりしないし、神にたいして一切何も求めない。

彼はこう考える。

人生は、自分の人間としての能力をより大きく開花できるような機会を与えてくれるという意味においてのみ価値があり、能力の開花こそが真に重要な唯一の現実であり、「究極的関心」の唯一の対象なのだ、と。

そして、彼は神について語らないし、その名を口にすることもない。

したがって、神を愛するということは、最大限の愛する能力を獲得したいと願うことであり、「神」が象徴しているものを実現したいと望むことなのである。

 

神への愛とは思考によって神を知ることでも、神への愛を考えることでもなく、神との一体感を経験する行為なのである

 

神への愛は、はじめは母なる女神への無力な者の依存であり、次に父性的な神への服従になり、成熟した段階になると、人間は神を、人間の外側にある力とみなすことはやめ、愛と正義の原理を自分自身のなかに取り込み、神と一つになる。最終的には詩的に、あるいは象徴的にしか神について語らないようになる。

 

愛と現代西洋社会におけるその崩壊

西洋文明の社会構造とそこから生まれた精神は、愛の発達を促すものではない。

 資本主義の発達により、資本の分野でも労働の分野でも主導権は個人から組織へ移行している。個々の労働者は個性を失い、使い捨ての機械部品になっている。

現代資本主義は、大人数で円滑に協力しあう人間、飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて外からの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間を求めている。また、自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従せず、それでいて命令には進んで従い、期待に沿うように行動し、摩擦を起こすことなく社会という機械に自分をはめこむような人間、命令に黙々と従って働く人間を求めている。

その結果、現代人は自分自身からも、仲間からも、自然からも疎外されている。現代人は商品と化し、自分の生命力もまるで投資のように感じている。

誰もができるだけほかの人々と密着していようと努めるが、それにもかかわらず誰もが孤独で、孤独を克服できないときに必ずやってくる不安定感・不安感・罪悪感に怯えている。 

 

現代文明は、人々がそうした孤独に気づかないように、さまざまな鎮痛剤を提供している。制度化された機械的な仕事、画一化された娯楽、大量消費社会などである。

今日の人間の幸福は「楽しい」こと、何でも「手に入れ」、消費すること。いまや私たちの性格は、交換と消費に適応している。精神的なものまでもがその対象だ。

 

必然的に愛をめぐる状況も、現代人のそうした社会的性格に呼応している。

幸福な結婚に関する記事を読むと、結婚の理想は円滑に機能するチームだと書いてある。こうした発想は、滞りなく役目を果たす労働者という考えとたいして違わない。

こうした関係を続けていると、二人のあいだがぎくしゃくすることはないが、結局のところ、二人は生涯他人のままであり、けっして「中心と中心の関係」にはならず、相手の気分を壊さないように努め、お世辞を言いあうだけの関係にとどまる。

こうした考え方では、堪えがたい孤独感からの避難所を見つけた、ということで人は世界にたいして、二人からなる同盟を結成する。この二倍になった利己主義が、愛や親愛の情だと誤解されている。

 

人は、愛があれば対立は起きないと信じている。

対立が破滅的な交わりに見えるからだ。しかし、ほとんどの人の「対立」は、実は、真の対立を避けようとする企てにすぎない。解決などありえないような些細な表面的なことで対立しているのだ。

二人の間に起きる真の対立は、けっして破滅的ではない。かならず解決し、カタルシス(浄化)をもたらし、それによって二人はより豊かな知識と能力を得る。

 

二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。この「中心における経験」のなかにしか、人間の現実はない。

人間の生はそこにしかなく、したがって愛の基盤もそこにしかない。そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦である。それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。

調和や対立、喜びや悲しみといったことは根本的な事実に比べたら取るに足らない問題だ。根本的な事実とは、二人の人間がそれぞれの存在の本質において自分自身を経験し、自分自身から逃避するのではなく、自分自身と一体化することによって、相手と一体化するということである。

愛があることを証明するものはただ一つ、すなわち二人の結びつきの深さ、それぞれの生命力と強さである。これが実ったところにのみ、愛が認められる。

  

愛の習練

ここまでは「愛の技術」の理論的な側面について論じたが、ここからは、それよりも難しい愛の技術の習練を論じる。

 

読者の多くは「どうしたら愛することができるか」を教えてもらうことを期待しているが、そういう気持ちでこの最終章を読むとひどく失望するにちがいない。

愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はないのである。

愛の習練に関する議論にできることは、愛の技術の前提条件、アプローチ、そして、前提条件とアプローチの習練について論じることだけである。決定的な一歩を踏み出すところで議論は終わる。

 

愛の技術の習練に必要なのは、規律、集中、忍耐、最高の関心である。

規律は、外から押し付けられた規則のようなものではなく、規律が自分自身の意志の表現となり、楽しいと感じられ、少しずつ慣れていき、それをやめると物足りなく感じられるようになることだ。

集中するとは、いまここで、全身で現在を生きることである。

いちばん集中力を身につけなければならないのは、愛しあっている者たちだ。ふつう、二人はさまざまな方法で互いから逃げようとするが、そうではなく、しっかりとそばにいることを学ばなければならない。最初のうちは非常に難しい。目的を達成できないのではないかという気分になる。したがって、忍耐力が必要となる。

 

愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。

ナルシシズム傾向の強い人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。

反対の極みにあるのは客観性だ。

人を愛するためには、ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが必要であるから、謙虚さと客観性と理性を育てなければならない。

 

愛することができるかどうかは、ナルシシズムからどれくらい抜け出ているか、また、生産的な方向性を育てる能力が、どの程度身についているかにもよる。

この脱出、覚醒の過程では、「信じる」ことが必須条件となる。

愛の技術の習練には「信じる」ことの習練が必要なのである。

 

 理にかなった信念(信じる)とは、自分自身の思考や感情の経験にもとづいた確信である。

信念は、人格全体に影響を及ぼす性格特徴であり、ある特定の信条ではない。

理にかなった信念は、知性面や感情面での生産的な活動に根ざしており、合理的思考の重要な構成要素である。大多数の意見とは無関係な、自分自身の生産的な観察と思考にもとづいた、他のいっさいから独立した確信に根ざしている。

 

他人を「信じる」ということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものと確信することである。

これは人は意見を変えてはならないという意味ではない。ただ、根本的な動機は変わらないのである。生命や人間の尊厳にたいする畏敬の念はその人の一部分であって、変化することはない。

 

同じ意味で、私たちは自分自身を「信じる」。

自分のなかに、一つの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する。

この芯こそが、「私」という言葉の背後にある現実であり、「私は私だ」という確信を支えているのはこの芯である。

 

自分自身を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。

自分自身に信念を持っている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という確信をもてるからだ。

自分自身にたいする信念は、他人にたいして約束ができるための必須条件である。

 

愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛にたいする信念である。

つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

 

信念をもつには勇気がいる。

勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。

愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。

ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。

 

信念と勇気の習練は、日常生活のごく些細なことから始まる。

第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。

それによって、次のようなことがわかるはずだ。

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れている

 

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。

愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない

 

 愛の習練に欠かすことのできない姿勢、それは能動性である。

たんに「何かをする」ことではなく、内的能動、つまり自分の力を生産的に用いることである。

人を愛するためには、精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高めなければならない。そして、そのためには、生活の他の多くの面でも生産的かつ能動的でなければならない。

 

資本主義を支えている原理と、愛の原理とは、両立しえない。

もっとも、「資本主義」それ自体が複雑で、その構造はたえず変化しており、いまなお、非同調や個人の自由裁量を許容していることも、認めなければならない。

したがって、資本主義社会に生きているからといって、愛の習練を積むことができないというわけでもない。

 

人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。

人を愛するという社会的な本性と、社会的生活とが、分離するのではなく、一体化するような、そんな社会をつくりあげなければならない。

 

愛について語ることは、「説教」ではない。

その理由は簡単だ。

愛について語ることは、どんな人間のなかにもある究極の欲求、本物の欲求について語ることだからである

 

愛の可能性を信じることは、人間の本性そのものへの洞察にもとづいた、理にかなった信念なのである。

 

 

 

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

 

 

 

3月トレーニングまとめ

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 2018年3月

走行距離:798.39km

走行時間:31h46m

獲得標高:5,761.5m

消費エネルギー:15,659kj

 

2月はかなり練習さぼってたので、なんとか火をつけようとした。

一応着火したけど、消えそう(笑)

 

しかも、最終週に胃腸炎になってしまった。

仕事も忙しいし、胃腸炎の回復が遅れると筋肉が削れてコンディションが落ちてしまうので、回復のために最大限の努力を実行。

医者はお粥だけ食べなさいと言っていたが、以下の本を参考に、りんご、バナナ、梅干し、はちみつ緑茶、納豆(これは本に書いてない)などを、胃腸の負担を考えながら少量ずつ補給。

また、小腸のエネルギー源になるということで、グルタミンパウダーも接種(これはネット情報)。

あとはとにかく寝る。

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一応2日で症状は改善。

3日目からは通常の食事を少なめに食べ、4日目からは通常通り(3日目はフラフラだったけど)。

被害は最小限に抑えらたかな。

 

この本、いろんな症状に対して効果のある食べ物、レシピなどを紹介している。

情報量はそんなに多くないが、弱っているときには情報があり過ぎても処理できないのでちょうど良い。

あと、イラストに癒される。これ結構重要(笑)

 

 

おいしく食べて体に効く!クスリごはん

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