Body Battery機能が社会人アスリートの体調管理にいいかも? ~Garmin vivosmart4 インプレ

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 Garmin vivosmart4

 

社会人アスリートはとにかく忙しい。

真剣に競技に取り組めば取り組むほど忙しい。

やらなきゃいけないことはたくさんあるのに、トレーニングもする。

学生の頃とは違って、体力のピークをとっくに過ぎた身体は、適当なトレーニングではパフォーマンスを上げられない。かといって、トレーニングを頑張りすぎると、免疫力が落ちて体調を崩す。

体調を崩し周りに迷惑をかけると、周囲から「何のためにやってるの?」「競技辞めたら?」という声が聞こえるような、聞こえないような…

 

と、いうことで、食事、睡眠、サプリなど、体調管理にはとても気を遣うのだが、それでも体調を崩すことはよくある。

最大の原因はストレスだ。

 そのストレスを計測し、あとどのくらい自分のエネルギーが残っているかを表示してくれるのが、Gaminのアクティブトラッカー、vivosmart4だ。

 

 

vivosmart4の機能や特徴

主な機能や特徴は以下のようなものだ。

  • 身体のエネルギー量を表すBody Battery
  • 1日のストレス計測
  • 睡眠モニター
  • ステップ数に加え、上昇階数、消費カロリー値、週間運動量を記録
  • ウォーキング、水泳、サイクリングなどのワークアウトを記録
  • LINEやその他アプリの通知を表示
  • アプリGarmin ConnectでPCやスマホと同期
  • 軽量16.4g(レギュラーサイズ)

 

詳しくはメーカーサイトなどを参照していただくとして、今回書くのは、数あるライフトラッカーやスマートウォッチとは一線を画す(と思われる)、BodyBattery機能だ。

 

BodyBattery機能とは

Gaminの説明によると、

ボディバッテリーとは、心拍変動、ストレス、アクティビティなどのデータを使用して予備エネルギー量を測定できる機能です。この機能は1から100の数字でユーザーのエネルギーレベルを表示します。

要するに、あなたのエネルギー残量はあとこのくらいですよ、と表示してくれる機能だ。

使い始めて2カ月ぐらい経つが、これが思いのほか役立っている。 

実際の体調に近い気がするのだ。

 

スマホには一日の経過が以下のように表示される。 

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5時過ぎに起床、仕事に行って、夕方にトレーニング(固定ローラー)をした一日。

山のようなラインがBodyBatteryの推移、その下の青いギザギザは休息、オレンジ色はストレスだ。

起床時にはバッテリーは95あったが、寝る前には34まで低下している。

だいたいこれが普通の一日。

 

週末はエネルギー消費が激しい(普通の人と違って)。

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3月9日、土曜のチーム朝練に行き、ストレスMax、エネルギー残量急降下、その後はなんとか横ばいに近い状態でしのぎ、睡眠で100まで回復させるも、3月10日の日曜朝練(南部練)でまたまた急降下、13時前後に1時間仮眠をとるも、下がりに下がって、最終的には16まで低下した。
 

精神的なストレスもしっかり把握してくれる

運動によるストレスは、心拍を把握することによって、ある程度計算できるのはわかる。だが、このvivosmart4は、運動によるものだけでなく、精神的なストレスも把握してくれるのが素晴らしい。

 

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2月15日金曜日、トレーニングはしていない。

通常通りの仕事の日だが、14時過ぎから結構なストレスのかかる会議があった。

オレンジのギザギザがしっかり出ている。

チーム練にも負けないくらいのストレスだ。

この日は、業務終了後は飲み会があり、そこでもそれなりに気をつかったようで、遅くまでストレスのオレンジが表示されている。

確かに疲れた一日だった。

 

で、帰宅は10時過ぎ、就寝は11時過ぎだったような気がするが、土曜のチーム朝練に行くために4時前に起床した一日は以下のようになった。

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睡眠時間が若干短く、アルコールが入っていたために睡眠の質が悪かったと思われる。結果、51までしか回復せず。最後は6!(笑)

 

精神的なストレスを把握できるのはなぜか

先ほど引用したGaminの説明では、「心拍変動、ストレス、アクティビティなど」のデータを利用してエネルギー量を測定すると書いてある。

「ストレス」というのが曖昧な表現である。そもそも「ストレス」をどのように測っているのか、という疑問が浮かぶ。

 

ここからは憶測の話になる。

実は、このvivosmart4、海外で販売されているものは、血中酸素飽和度(SpO2)を計測できる。この血中酸素飽和度(SpO2)は、心臓から全身に運ばれる血液(動脈血)の中を流れている赤血球に含まれるヘモグロビンの何%に酸素が結合しているか、という値だ。要するに、身体のすみずみまで酸素がいきわたっているかどうかを測るものである。

しかし、日本では薬事法の関係で、その機能が「停止」されている

Gaminの説明は以下のようなものだ。

血中酸素飽和度(SpO2)の計測機器は、現在、日本国内においては薬事法管理医療機器(クラスⅡ)に分類されています。
このため、海外ではその機能を有する製品であっても、日本国内ではお使いいただけないよう機能を停止しております。

この「停止」という表現だが、あくまでも値を表示させないという意味ではないかというのが個人的な推測だ。

実際には計測していて、BodyBattery機能の基礎データとして、利用されているのではないか

言い換えれば、停止させたのは血中酸素飽和度の値を表示させることだけで、心拍変動、血中酸素飽和度、アクティビティのデータを用いて、エネルギー量をはじき出しているのではないか、ということである。

 

例えば、精神的なストレスがかかると、自然と呼吸が浅くなることが多いと思うが、それによって、血中酸素飽和度が下がり、vivosmart4がストレスと認識できるというところだと思っている(あくまで推測)。

 

数値をどのように活用するか

自分のエネルギー残量を見るだけでも結構楽しいのだが、今のところ以下の2点を意識して使っている。

レーニングメニューの選択、実施の有無

平日は帰宅後にローラー練というパターンだが、エネルギー残量によって、量や質をコントロールしている。場合によっては、中止する。

もっとも、BodyBatteryのエネルギー残量だけを頼りに判断しているわけではない。あくまでも、自分自身が感じている主観的な体調と、エネルギー残量を比較衡量しての判断だ。

 

何にストレスを感じているか(ストレス・コーピング)

精神的なストレスを計測できるので、自分が何に対してストレスを感じているかを可視化できる。可視化できると、それに対する対処法を考えることもできる

あの会議ではストレスを感じていたけど、何にストレスを感じていたのか、次同じようなことがあった場合、どのような心構えでいれば、ストレスを減らすことができるだろうか、という思考ができるのである。

その出来事の受け止め方(認知)を適切にして、ストレスを減らすメンタルヘルス的に重要で、コーピング・スキルと呼ばれたりしている。

 

まとめ

自転車にパワーメーターをつけていると、TSSやIFといった指標を用いて体調管理に活かすことができるが、そこで考慮されているのはトレーニングの負荷だけだ。

仕事や普段の生活によるストレス、その他もろもろのことは計測できない。

プロだとTSSやIFで管理できるかもしれないが、社会人アスリートだと厳しい。

そういう意味で、vivosmart4は、社会人アスリートの体調管理に役立つのではないかと思う。

 

 補足

バンドの長さで、サイズ展開されていて、レギュラーとラージがあるのだが、私の手首周りが16cmぐらいで、ギリギリちょうどぐらい。17cm以上ある方だとラージがいいかもしれない(色はブラックしかないが)。

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圧倒的状況における人間の考察 ユダヤ人心理学者のナチス強制収容所の体験記 ~夜と霧 

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 夜と霧

ヴィクトール・E・フランクル

  

 フランクルウィーン大学フロイトアドラーに師事して精神医学を学び、ウィーンの精神病院で働いていたが、1942年にナチス強制収容所に入れられた。

 

この本の原題は“Ein Psychologeerlebt das Konzentrationslager”

「心理学者、強制収容所を体験する」というような意味らしい。

  

 

感動の消滅

荷物の上にごろごろと折り重なるようなぎゅう詰めのなか、何日も昼夜ぶっ通しの移送の果てに列車がたどり着いたのは、アウシュヴィッツ

最初に行われるのは選別。

ほとんどの人がガス室送りになった。

そんな状況にあっても、人は希望にしがみつき、最後の瞬間まで、事態はそんなに悪くないだろうと信じる(これを恩赦妄想という)。

しかし人間としての尊厳を打ち砕くような扱いを受けるなか、彼らがまだもっていた幻想は、ひとつまたひとつと潰えていく。

 

収容されてしばらく経つと、感動の消滅が起こる。

 苦悩に満ちた経験をするなか、内なる感情を抹殺しにかかったのだ。

最初の頃は同じ被収容者がサディスティックに痛めつけられているのを見ると、目を逸らしていたのだが、そのうち、無関心に、なにも感じずに眺めていられるようになる。

 

感情の消滅と鈍麻は、毎日毎時殴られることにたいしても、なにも感じなくさせた。この不感無覚は、被収容者の心をとっさに囲う、なくてはならない盾だった。

感情の消滅は、精神にとって必要不可欠な自己保存メカニズムだったのである。

ただし、かなり感情が鈍麻した者でも、ときには憤怒の発作に見舞われる。それは、暴力やその肉体的苦痛ではなく、それに伴う愚弄が引き金になる

殴られる肉体的苦痛は、わたしたちおとなの囚人だけでなく、懲罰をうけた子どもにとってすら深刻ではない。心の痛み、つまり不正や不条理への憤怒に、殴られた瞬間、人はとことん苦しむのだ。だから、空振りに終わった殴打が、場合によってはいっそう苦痛だったりすることもある。(38ページ)

 

内面への逃避

精神的な生活を営んでいた感受性の強い人々は、困難な状況に苦しみながらも、精神にそれほどダメージを受けないことがままあった。逆説的だが、繊細な被収容者のほうが、粗野な人々よりも収容所生活によく耐えたのである。

 

収容所から工事現場への過酷な行進のなか、隣を歩いていた仲間が、自分たちの妻を思いやる言葉を発した時、フランクルは妻の姿を(心のなかで)まざまざと見た。

妻と語っているような気がし、妻が微笑み、まなざしでうながし、励ますのが見えた。

その微笑みは、その瞬間昇ってきた太陽よりもフランクルを明るく照らした。

そのとき、ある思いがわたしを貫いた。(中略) 愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへ救われること! 人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるといううことを、わたしは理解したのだ。(61ページ)

工事現場に着き、作業が始まるなか、フランクルは妻との語らいを続けていた。

フランクルはそのとき、あることに気付く。

そのとき、あることに思い至った。妻がまだいきているかどうか、まったくわからないではないか!※

 そしてわたしは知り、学んだのだ。愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的存在、つまり(哲学者のいう)「本質(ゾーザイン)」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「現在(ダーザイン)」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。(62ページ)

(※すでに亡くなっていた。) 

 

精神の自由

自分はただ運目に弄ばれる存在であり、みずからの運命の主役を演じるのでなく、運命のなすがままになっているという圧倒的な感情、加えて収容所の人間を支配する深刻な感情消滅。さらには空腹と睡眠不足からくる「いらだち」は被収容者心理の特徴だった。

収容所の日々は、内心の決断を迫る状況の連続だった。

それは、人間の独自性、精神の自由などいつでも奪えるのだと威嚇し、自由も尊厳も放棄して外的な条件に弄ばれるたんなるモノとなりはて、「典型的な」被収容者へと焼き直されたほうが身のためだと誘惑する環境の前に、跪いて堕落に甘んじるか、あるいは拒否するかという決断だ。

しかしそんな究極の状況でも、あたえられた環境でいかに振る舞うかという、人間としての最後の自由だけは奪えないという例は、一部の人たちだけではあるが、確実にあった。

生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようが、がんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、その一点にかかっていた。 

 おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげないなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味のある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。(113ページ)

 

生きる意味 

収容所では、1944年のクリスマスと1945年の新年の週に大量の死者が出た。

これは労働条件や食料事情からは説明できないものだった。原因は、被収容者が生きる意味を見失ったことによるものだと考えられる。多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるだろうという、希望にすがっていたのだ。

ニーチェの言葉は的を射ている。

「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」

 

では、「生きていることにもうなんにも期待がもてない」

こんな言葉にたいして、私たちはいったいどう応えたらいいのか。

 

必要なのは生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。

私たちが生きることからなにを期待するかではなく、生きることが私たちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している者に伝えていくのである。

生きるとは、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。

人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。

私たちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏付けされた、総体的な生きる意味なのである

 わたしたちにとって、「どれだけでも苦しみ尽くさねばならない」ことはあった。ものごとを、つまり横溢する苦しみを直視することは避けられなかった。気持ちが萎え、ときには涙することもあった。だが、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。(132ページ)

 

人間とはなにか

収容所の監視者のなかにも役割から逸脱する者はいた。

フランクルが最後に送られ、解放された収容所の所長、彼は親衛隊員だったが、こっそりポケットマネーからかなりの額を出して、被収容者のために近くの町の薬局から薬品を買って来させていた(後になって判明した)。彼は被収容者に暴力を振るうこともなかった。

いっぽう、同じ収容所の被収容者の班長は、時と場所を問わず、手段も選ばず、手当たり次第に被収容者を殴った。

ここで言えるのは、収容所監視者であること、あるいは逆に被収容者であったことをもって、ひとりの人間についてなにも語ったことにならない、ということだ。

いっぽうは天使で、もういっぽうは悪魔だった、という単純化はつつしむべきだ。事実はそうではなかった。 

 わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。(145ページ)

 

解放後の苦しみ

被収容者は自由を得て、もとの暮らしに戻っても不満と失意に苦しめられる

ふるさとに帰って気づくのは、そこかしこで会う人たちが、せいぜい肩をすくめるか、おざなりの言葉をかけてくるかだ。彼の不満は膨れ上がり、一体何のために自分はあのすべてを耐えしのんだのだ、という懐疑に悩まされることになる。

収容所で唯一心の支えにしていた愛する人がもういない人間は哀れだ。

夢にみた憧れの瞬間が今や現実になったのに、思い描いていたのは違っているのである。

町の中心部から路面電車に乗り、何年も心のなかで見つめていたあの家に向かい、呼び鈴のボタンを押す。数え切れないほどの夢のなかで願い続けた、その瞬間…

しかし、ドアを開けてくれるはずの人は開けてくれない。その人は、もう二度とドアを開けない……。

失意という体験では、自分がゆだねられていると感じる運命が問題なのだ。すなわち、自分は考えられるかぎりの苦悩とどん底にたっしたと、何年ものあいだ信じていた人間が、いまや苦悩は底無しで、ここがもっとも深いということはないのだと、そしてもっともっと深く、もっともっと落ちていくことがありうるのだ、と見定めてしまうのだ……。(155ページ)

 

 収容所にいたすべての人びとは、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、またそんなことをこもごもに言いあったものだ。わたしたちは、幸せなど意に介さなかった。わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは、幸せではなかった。にもかかわらず、不幸せへの心構えはほとんどできていなかった。少なからぬ数の解放された人びとが、新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、のりこえることがきわめて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服するのは容易なことではない。そうは言っても、精神医をめげさせることはできない。その反対に、奮い立たせる。ここには使命感を呼び覚ますものがある。(156ページ) 

 

 

本書は東日本大震災後の被災地の書店でよく売れたという。

 

自分自身ではどうすることもできない圧倒的な状況において、それでも生きていく、生きていくことに意味を見出す、とはどういうことか。

生きることとは、苦しむことと、死ぬことにも裏付けられた総体的なもの。

厳しい内容だが、この本からは、希望も感じることができると思う。

 

 

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

 

復帰前の沖縄を感じることによって見えてくるもの ~宝島

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541ページもあるが、一気に読み終えた。

 

舞台は1952年から1972年、米軍占領下の沖縄。

戦後の混乱のなか、食料も生活必需品も不足しているなかで、米軍基地に侵入し、その豊富な物資を奪って生活の糧にしていたのが戦果アギヤー。

1952年、おんちゃんと呼ばれるコザの英雄が戦果アギヤーの仲間たちとともに嘉手納基地に侵入した。しかし、米軍や憲兵隊に見つかり、激しい追跡を受け、おんちゃんは行方不明になってしまう。

おんちゃんと行動をともにしていた、親友のグスクは警察官に、弟のレイはやくざ、恋人のヤマコは教師になって、それぞれおんちゃんの行方を捜していく。

 

主人公たちの生きざまを追いながら、宮森小学校への米軍機墜落、嘉手納基地のB52墜落事故、毒ガス移送などの史実が描かれいて、物語の最後はコザ暴動へとつながっていく。

この小説の素晴らしいのは、これらの史実を同じ時代に生きていたかのように感じることができるところだ。

復帰後に生まれた私は、これらの事件、事故を知識として知ってはいても、どこか他人事のような気がしていたかもしれない。

しかし、小説のなかで追体験していくことによって、先輩たちの感じていたことを感じることができるような気がする。

 

以下、印象深かったシーンを一部抜粋。

佐藤首相とニクソン大統領が沖縄の返還に合意したことを伝えるテレビの実況中継が流れているなか、米兵に関わる悲劇に巻き込まれた親子の話を聞いたグスクの言葉。

「基地の問題はうやむやにされて、核や毒ガスもなくならない。戦闘機は堕ちつづけて、娼婦の子は慰みものにされる。この返還で喜べるのはうしろめたさに格好のついた日本人(ヤマトンチュ)だけさ」

 

 戦災孤児として育ち、3人と繋がるようになるウタとヤマコの会話。

「だってこの島が日本(ヤマトゥ)になって、おいらたちになんのいいことがあるのさ。基地はなくならないんだろ、アメリカーもごめんなさいしないんだろ。おいらの母ちゃん(アンマー)にしたことも、キヨにしたことも償わせなきゃならんがあ」

「島の人はたちは“なんくるないさ”って言うんだろ。それでみんな忘れんぼ(ソーヌガー)になっちゃう。だけどそれじゃあかわいそうやさ、キヨが、母ちゃん(アンマー)が」

「あのね、それは……忘れなきゃ生きていけなかったから。それだけの目に遭ってきたから。宴会(スージ)にも占い(ハンジ)にもなんにでもすがって、過去をふっきろうとして、そのうえで出てきた“なんくるないさ”はただの“なんくるないさ”じゃないんだよ」

 

復帰前と現在の状況はだいぶ異なってきているが、本質的な部分は変わっていない。

 

沖縄の基地問題については様々な意見があっていい。

民主主義、自己決定権、人権、アイデンティティー、平和、キーワードはいろいろある。

ただ、対等な関係ではないこと、そこは法律や制度うんぬんではなく、人として、素直に疑問を持つべきところであると思う。

 

 

第160回直木賞受賞 宝島

第160回直木賞受賞 宝島

 

 

人は誰でも幸福になることができる。そのために必要なのが共同体感覚。 ~アドラー心理学 その4

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アドラー心理学の概要その4。

その1では、人は誰もが同じ世界に生きているのではなく、自分が意味づけした世界に生きていること、過去の出来事で現在の状況をすべて説明することはできず、そこには隠された目的があることなどを書いた。

その2の内容は、人間を動かす原動力となっている「劣等感」と「優越性の追求」、そしてそれが行き過ぎた場合に「劣等コンプレックス」や「優越コンプレックス」により起きる問題、克服するためには、他者へ関心を向ける、他者への貢献に関するものだった。

その3では、すべての悩みは対人関係にあるが、他者を敵だと考えがちな人は、自己中心性や承認欲求が強すぎること、他者に関心を持ち、最終的に誰が責任を引き受けるか課題を分離することが必要であるという話だった。

 

 

対人関係の最終的な目標 

前回、課題の分離については、対人関係の最終的な目標ではないと書いたが、ゴールとなるのが、「共同体感覚」である。アドラー心理学のカギとなるものだ。

人は誰でも幸福になることができる。そのために必要なのが共同体感覚だ。

 

 われわれのまわりには他者がいる。そしてわれわれは他者と結びついて生きている。人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することはできない。もしも一人で生き、問題に一人で対処しようとすれば、滅びてしまうだろう。自分自身の生を続けることもできないし、人類の生も続けることはできないだろう。そこで、人は、弱さ、欠点、限界のために、いつも他者と結びついているのである。自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である。

(第一章 人生の意味「人生の三つの課題」)

  

では、具体的に共同体感覚における共同体とはどのようなものなのか。

(共同体感覚における共同体とは)さしあたって自分が所属する家族、学校、職場、社会、国家、人類というすべてであり、過去、現在、未来のすべての人類、さらには生きているもの、生きていないものも含めた、この宇宙全体を指している。

 

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100分de名著「人生の意味の心理学」より

なんとも壮大な話になっていて、一般的な心理学というものからはかけ離れたものに感じるだろう。

実際にアドラーがこの概念を使い始めたとき、心理学に科学ではないものを持ち込んでいるとして批判されたという。

ただし、アドラーはこの共同体は「到達できない理想」であるとも言っている。

 

共同体「感覚」とは

大過ぎて戸惑うところだが、共同体感覚の「共同体」は一応そのようなものとして、その次に「感覚」とはどのようなものか。 

 

アドラーは、英語の著作の中で(母語はドイツ語)、共同体感覚を「social interest」と翻訳した。「他者への関心」ということだ。

「自分への関心(執着)」(self interest)を「他者への関心」(social interest)に切り替える。他者への関心=共同体感覚を持っている人は、他者に貢献し、貢献感を持つことができるとした。それが幸福につながるというのである。

 共同体感覚を持つために必要なことは三つある。

 

自己受容

まず一つ目は「自己受容」である。

ありのままの自分を受け入れる。いいところも、悪いところも。

まずはそのまま、ありのままがスタート地点である。

自分を受け入れるためには、「自分は特別によくなくても、悪くなくてもよい」と考えることがポイントだ。

 

他者信頼

二つ目は「他者信頼」。

他者を無条件に信頼すること。条件をつけないこと。

人生では、信頼していた相手に裏切られたり、傷つけられたりすることもある。

しかし、それを恐れて対人関係のなかに入っていかなければ、誰とも深い関係に入っていくことができず、幸せになることはできない。

 

他者貢献

三つ目は「他者貢献(感)」である。

自分が役に立てている、貢献していると感じられるときに、そういう自分に価値があると思え、自分を受け入れることができる。

ここで重要なのは、他者へ貢献していると感じられるということである。

行動レベルで貢献しているということではない。行動レベルで考えてしまうと、赤ちゃんや寝たきりの老人は貢献できていないことになってしまう。

あくまでも存在レベルで考える。

赤ちゃんは何もできないが、成長していく姿を見るだけで、親は嬉しいのであり、他者へ貢献しているといえる。

寝たきりの親が生きていてくれることで、家族は嬉しく思うのであり、これも他者へ貢献しているといえる。

自分についても、生きていることで他者に喜びを与え、貢献できていると感じることが必要だ。

 

以上の三つは円環構造になる。

他者へ貢献していると感じられれば、そんな自分に価値があると思える。自分に価値があると思えれば、自分を受け入れることができる。貢献感を持つことができるためには、他者を敵ではなく、仲間として信頼していることが必要だ。

図示すると以下のようになる。

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そして、これら三つを実践していくためには、 「勇気」が必要となる。

ありのままの自分を受け入れる「勇気」、傷つくことを恐れず、他者を仲間と信じ、貢献していく「勇気」だ。

 

勇気づけ

このような勇気を持てる援助をすることを、アドラー心理学では「勇気づけ」という。

勇気づけという言葉は、他者に何かをさせようと働きかけることを連想させるが、あくまでも援助である。勇気は本人が、自分自身で持つしかない。 

 

勇気づけの基本となる言葉は、「ありがとう」だ。 

感謝の言葉をかけられれば、共同体へ貢献していることを感じることができる。

 

以下、勇気づけのポイントや方法を少し紹介する(「アドラー心理学を語る4」野田俊作より)。

貢献に注目する

「君は本当に有能だ」「えらい、よくやった」、これは相手の能力や勝ち負けということに注目している。自己への関心、執着を育てがちで、今回はうまくいっても、次に失敗したときの挫折感は大きくなる。

そうではなく、共同体への貢献に注目する。

「君のおかげでとても助かったよ」と声をかけるのが、勇気づけに繋がる。

 

過程を重視する

学校でいい成績をとってきた子どもに「いい成績だね、よかったよ。嬉しい」と言うことは、結果を重視したものになりがちだ。いい成績を取れさえすれば手段は何でもいいと思ってしまうかもしれないし、悪い成績をとると勇気をくじかれる。

ここでは、プロセス、過程を重視し、「努力したんだね、すごく頑張ったね」と声をかけたい。

 

 成果を指摘する

励ますつもりで出来ていない部分を指摘することがあるが、それも勇気をくじくことがある。「全体としてはよくできているけれども、この部分がだめだな」ではなく、「ここの部分はよくできたように思う」というような言い方をしたい。

 

成長を重視する

「ほかの子よりもよくできているね」ではなく、「この前よりも上達しているね」と言いたい。

他者と比較するのではなく、本人の成長に注目する。

 

相手に判断を委ねる

「ここはよくないよ、こうしたほうがいいよ」ではなく、「あなた自身はどこが気に入っているかな、どういうふうにすればいいと思っているかな」。

善悪をこちら側で判断して押し付けるのではなく、相手の主体的な判断を育てる。

 

「意見言葉」を使う

主観的な意見に過ぎないものを事実として言うことは、しばしば相手をくじけさせる。

「それは間違っている」「それは正しい」ではなく、「うん、そのやり方は正しいと思うな」「そういう言い方には賛成できないな」と、自分の主観的な判断であることを全面に出したほうがいい。

 

 共同体感覚の広がり

 人は誰でも幸福になることができる、そのために必要なのが共同体感覚であるとして、共同体感覚の意味やそのために必要な勇気づけについて書いてきた。

話を少し戻して、共同体感覚が過去、現在、未来にまたがり、そして人類以外のものにまで広がることをどう考えるか。

寝たきりの病人について、存在そのもので家族が嬉しく思うことで貢献していると書いたが、そもそも現在の行動や存在だけが、貢献であると考える必要はないだろう。

例えば、その病人の方が、元気で健康な頃、自分の子どもや職場の後輩に自分自身の経験や知識、そして想いを伝えていたとする。それは「愛」と言ってもいいかもしれないが、子どもや後輩のなかにそれは受け継がれていき、次の世代に伝わっていく。過去の行為が、現在も息づき、現役世代が受け継ぎながら貢献している。これは、現役世代だけではなく、病人の方の現在の貢献とも言えるのではないか。

病人の方の過去の行為や存在が、現在の人々、そして将来の世代に貢献すると考えることができるのである。

そもそも私たちが生きているこの社会は、過去の数多の先人たちの努力により成り立っているはずだ。

また、些細なことだが、買い物をするときにエコバックを持参することは、誰のためなのだろうか。自分や家族だけのためではないし、社会のためと言ってしまえば、そのような感じもするが、環境のことを考えると、人類だけのためではないだろう。

 

理想だけが現実を変える力を持つ

アドラー第一次世界大戦に従軍した悲惨な経験から、どうすれば戦争のない世の中になるかと考えた。

そのなかで共同体感覚の概念が生まれ、人々が自分だけに関心を持つのではなく、他者に関心を持ち、他者に貢献しようと思えることが必要だと説いた。

そして、そのためには教育が重要であるとして、子どもたちの教育に熱心に取り組んだが、すべての人間は対等であり、横の関係であることが重要であるとした。親と子、教師と生徒、上司と部下、すべて横の関係であり、人間の価値に上下はなく、誰もが同じ権利を持っているので、誰かが誰かを手段として扱うことはできないのである。

ほめることや叱ることに否定的なのは、それが自然と縦の関係になりやすく、他者をコントロールしたり、虐げることに繋がるからであった。

 

最後に、100分de名著「人生の意味の心理学」で岸見氏は以下のように述べている。

 アドラーのいう「共同体感覚」は理想であり、すべての人が他者を仲間と見なして、互いに協力しあう世界が、そう簡単に出現するとは思えません。しかし、実現していないから理想なのであって、理想だけがこの現実を変える力を持っているのです。現実はこうなのだと現実を追認するだけでは世界は変わりません。今後、アドラーの思想に触れて、対等であるとは何なのかと考える人が増えていけば、世界はいい方向に向かっていくはずだと私は考えています。そのためには、自分は日々の生活の中で何ができるかを考えていかなければなりません。

 

 

 あと一回、補足的なものを書くかな…(未定)

 

 

勇気づけの方法 (アドラー心理学を語る4)

勇気づけの方法 (アドラー心理学を語る4)

 

 

 

悩みの源泉は対人関係にあるが、生きる喜びや幸せもまた、対人関係にある ~アドラー心理学 その3

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前回は、人間を動かす原動力になっている「劣等感」や「優越性の追求」について書いた。これらがあるからこそ、人は今よりも優れた存在になろうと課題に立ち向かったり、努力したりする。しかし、それが強すぎると逆に課題から遠ざかろうとする。

前回の記事で、「課題」という言葉を何度か使ったが、アドラーは人生で直面する課題を「ライフタスク」といい、仕事のタスク、交友のタスク、愛のタスクがあるとした(最近はここに自己や、精神世界を加える考え方もある)。

このライフタスク、簡単にいうと、対人関係の課題といっていいと思う。

今回はその対人関係について。

 

 

すべての悩みは対人関係

アドラーは、「すべての悩みは対人関係の悩みである」と考えた。

もし、自分がこの宇宙で一人で生きているのであれば、そこに善悪はなく、言葉も不要である。自分の外見も気にならないはずだ。

しかし、誰か一人でも他者がいるなら、対人関係を考えなくてはならなくなる。

 

対人関係の問題は、他者を自分の行く手を遮る存在、「敵」と見なすことから生まれる。これは、親子関係、夫婦関係、友人関係、職場の対人関係すべてに言える。

教えたとおりにやってくれない、やってほしいことがあるが気づいてくれない、指示に従わない、いつも嫌なことを言われるから避けたい、こういった思いが積み重なると、次第に相手を「敵」と見なすようになってしまうのだ。

 

なぜそう思ってしまうのか。

その1で触れた目的論で考えると、「他者との関係に入っていきたくない」という目的があるからということになる。

「敵」のなかに入っていくと、摩擦が生まれ、嫌われたり、裏切られたりして傷つく可能性があるため、それを避けるのだ。

 

しかし、対人関係は悩みの源泉ではあるが、生きる喜びや幸せも、対人関係のなかにある

幸せになるには、対人関係を避けるのではなく、まず、敵だと思っている他者に対する意味づけを変える必要がある

 

「自分が世界の中心にいる」という誤り

他者を敵だと考える人の多くに共通しているのが、「自分が世界の中心にいる(いたい)」という意識を持っていることだ。

自分が世界の中心だと考えてしまう人は、子どもの頃に甘やかされて育った経験を持っていることが多いが、アドラーは甘やかしの危険について次のようにいっている。

 

 甘やかされた子どもは、自分の願いが法律になることを期待するように育てられる。(中略)その結果、自分が注目の中心でなかったり、他の人が彼[女]の感情に気を配ることを主な目的にしない時には、いつも大いに当惑することになる。

(第一章 人生の意味「子ども時代の経験」)

 

幼い頃に親に甘やかされ、何でも与えられて育つと、やがて自分がなんの努力をしなくても、他者から与えられることを当然と思い、他者が自分に何をしてくれるかにしか関心がない人間に成長してしまう。

そういう人間は、自分が望むことを人から与えられているうちは機嫌がいいが、そうでなくなると、(自分の意に沿った行動をさせるために)不機嫌になったり、他者に攻撃的になったりする。

 

承認欲求

自分が世界の中心であると考えて育った人は、ほめられたり、注目されてきたために、「承認欲求」が強くなりやすい。(訳者の岸見氏は承認欲求を持つようになるのは、賞罰教育による影響もあると考えている。)

(※個人的には、承認欲求は誰にでもあるが、強すぎることが問題だと思う。)

承認欲求が強すぎる人は、ほめられない(承認されない)とわかると、適切な行動をしなかったり、ほめられる(承認される)ために、不正行為を行ったりする。

 また、怒られそうならやるし、怒られないならやらないということにもなる。

承認されなくても何かをしなければならない場面は人生の中に多々ある。

岸見氏によれば、介護は承認欲求がある(強い)人にはつらいものになるという。

なぜなら、親から「ありがとう」という言葉をかけられることは期待できないからだ。

 

仕事では、裏方や人が嫌がることをしなければならない仕事、職位が上がれば上がるほど、 認められることは少ないだろう(よいしょは別として)。

そんな仕事をしている人が、褒められたり、認められることを求めるようになると、仕事は苦役になってしまう。

 

脱却する方法

では、承認欲求や世界の中心に自分がいるという意識から脱却するためにはどうしたらいいか。

まず一つ目は、他者に関心を持つことだ。

自分にしか関心がない人は、他者の発言や行動を見ても、もしも自分だったらどうするだろうかという自分目線でものを考えてしまうので、多くの場合、正しく他者を理解することはできない。

(限界はあるが)「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」よう努めなければならないとアドラーはいっている。

 

次に、他者は自分の期待を満たすために生きているのではないことを知ることだ。

他者からよく思われないことを怖れて、他者の期待を満たそうとする人は、自分の人生ではなく、他者の望む人生を歩んでしまうことになる。自分の人生を生きるのであれば、他者との摩擦は必ず起こるし、嫌われることもあるだろう。

自分の人生を生きる決心をすれば、他者から承認される必要はなくなる

同じ理由で、自分が他者の期待を満たすために生きているのでないとすれば、同じ権利を他者にも認めなければならない。

このことを理解できれば、他者が自分の思うようなことをしてくれなくても、不愉快に思ったり、憤りを感じることは少なくなるだろう。

 

「課題の分離」

三つ目は「課題の分離」だ。

あることの最終的な結末が誰に降りかかるか、その責任を最終的に誰が引き受けなければならないかを考えるのが課題の分離である。

 

子どもが勉強をしないことに悩む親は多いが、勉強をすることは誰の課題か。

勉強をしなくて困るのは誰か、その責任を引き受けるのは誰か。

子どもである。

勉強は親ではなく、子どもの課題だ。

 

対人関係のトラブルは、他者の課題に踏み込んだり、踏み込まれることによって起こる。

親が「勉強しなさい」ということは、子どもの課題に踏み込んでいることになるのだ。

だから、たいていの場合は、反発して勉強しない(やっても、やったふりだったり、気が入っていない)。

 

親ができるのは、子どもが勉強を自分の課題と認識し、取り組む決意をしたときに、その環境を整える(援助する)ことだ。

また、前回の記事の「優越性の追求」のなかで少し触れたが、勉強は自分だけのためにするのではなく、他者に貢献することに繋がること、他者に貢献することの素晴らしさを教えていくことも親ができることだろう。

しかし、勉強するかしないかは、あくまで子どもの課題である。

子どもは、親の期待を満たすために生きているわけではないのだ。

 

ときには課題を共有することも必要

課題の分離というと、自分の課題は自分で解決するしかない、というとても厳しい話に聞こえる。もちろん厳しい面もあるが、必ずしもそれがすべてではない。

 

そもそも、課題を分離することは、対人関係の最終の目標ではない

現状は、糸がもつれたような状態になっているので、何が誰の課題かを見極めたうえで、自分だけでは解決できない問題は他者に協力を求めていい。

これをアドラー心理学では「共同の課題にする」という。

 

子どもの勉強でいえば、最近の成績のことについて話したいという。

話の内容を予見し、身構えるかもしれないが、共同の課題にするためには、手続きを踏むことが必要だ。

また、このような話がしやすくなるよう、日ごろから関係を良くしておくことも大事になる。

ここで、共同の課題にしようといいながら、自分の思うように子どもを操作、支配しようとしていないかには注意を要する。

 

 

「課題を分離することは、対人関係の最終の目標ではない」と書いたが、では最終の目標は何か。ここで、「共同体感覚」という最も重要な概念がでてくる。

次回は共同体感覚、勇気づけなどについて書く予定。

 

 

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人それぞれ一歩ずつ前へ進む 「劣等感」と「優越性の追求」 ~アドラー心理学 その2

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前回は、「意味づけを変えれば、過去、今、未来が変わる」と題して、目的論やライフスタイルについて紹介した。

 今回は、人間を動かす原動力となっている「劣等感」と「優越性の追求」について書く。

 

 

優越性の追求は人間の普遍的な欲求

人は誰でも自分のためになることを追求して生きている。 

この自分のためになること、今よりも優れた存在になりたいと思いながら生きていくことを、アドラーは「優越性の追求」と呼び、人間の普遍的な欲求であると考えた。

 すべての人を動機づけ、われわれがわれわれの文化へなすあらゆる貢献の源泉は、優越性の追求である。人間の生活の全体は、この活動の太い線に沿って、即ち、下から上へ、マイナスからプラスへ、敗北から勝利へと進行する。

(『人生の意味の心理学』第三章 劣等コンプレックスと優越コンプレックス「優越性の目標」)

 

優越性の追求と対をなすのが「劣等感」である。

アドラー心理学では、優越性の追求と劣等感は誰もが持っていて、どちらも努力と成長への刺激になると考える。

一般に、劣等感というと、他者との比較で考えがちだが、ここでいう劣等感はそうではなく、「理想の自分と現実の自分との比較」から生じるものである。

アドラーはこの劣等感こそが、人類のあらゆる進歩の原動力になっていると考えた。

 

見かけの因果律と劣等コンプレックス

劣等感や優越性の追求は、人間や世界にとって有用だが、一方でアドラーは、強すぎる劣等感や優越性の追求を、「劣等コンプレックス」、「優越コンプレックス」と呼び、人生に有用でないとしている。

 

 まず、劣等コンプレックスは、劣等感を「言い訳」に使う状態だ。

「AであるからBができない」、「AでないからBができない」という論理を日常で多用する。

トラウマがあって、チャレンジしようとすると足がすくむ、お腹が痛いので学校に行けない、背が低いから、収入が低いからもてない…

これらは、実際には因果関係はない。Aだから必ずBになるかといえば、そうではないからだ。これをアドラーは「見かけの因果律」と呼んだ。

劣等コンプレックスは、見かけの因果律を立てて、人生の課題から逃げようとするのだ。

本来、劣等感は建設的に補償するしかない。

自分が理想とする状況に達していないと思った場合は、もっと勉強しよう、もっと努力しようと考えて前に進むしかないのだ。

 

優越コンプレックス

優越コンプレックスは劣等コンプレックスと対になる。

自分を実際よりも優れているように見せようとするのが、優越コンプレックスの特徴だ。

学歴や肩書きを誇示する、高価なブランド品で身を飾る、過去の栄光の話ばかりする、知り合いの手柄を自分の手柄のように話す人は、優越コンプレックスがあると考えていいだろう。

自分が優れていることを強調し、他者に誇示する人にとっては、実際に優れているかどうかは問題でなくなってくる。ただ「他者よりも優れていると見えること」が重要になり、絶えず他者の評価を気にかけ、他者からの期待に応えようとする。

 

また、優越コンプレックスを持つ人のなかには、自分を誇示するのではなく、他者の価値を貶めることで、相対的に自分を上に置こうとする人もいる。

 例えば、パワハラをしたり、理不尽に部下を叱りつける上司がそれにあたる。

本来的な仕事の部分では実は自信がないので、叱りつけて優位に立とうとするのだ。

アドラーは、こういった他者の価値を落として自分が優位に立とうとすることを「価値低減傾向」と呼んでいる。

いじめや差別も価値低減傾向がある人が引き起こすといっていいだろう。

いじめる側、差別する側の人は、強い劣等感を持っていて、自分よりも弱い人をいじめたり、差別することで相対的に自分を上に位置づけようとする。

したがって、「いじめは人間として恥ずかしい行為、絶対にやめよう」とだけ言っても解決しない。いじめる側、差別する側の人に、自分に価値があると思えるようになる援助が必要になってくるのだ。

 

ちなみに、優越コンプレックスを持った上司にあたったらどうするか。

萎縮せず、普通に接すること」だ(容易ではないが)。

仕事の場面では、誰が言っているかではなく、何が言われているかに注目すればいい。

優越コンプレックスを持っている人は、いわば常につま先立ちで背伸びをしているようなもの。実は自分自身もつらい

だから部下が普通に接すると、その人の前では背伸びをする必要がないと思うようになり、行動が変化する可能性がある。

 

優越性の追求をどのように考えるか

劣等コンプレックスや優越コンプレックスについて、自分自身にも思い当たる方が多いのではないだろうか。私自身、見かけの因果律なんて、頻繁に使っている気すらする。

 私たちはなぜ、気づかないうちに劣等コンプレックスや優越コンプレックスに陥ってしまうのか。何を目的としてそうなるのか。

それは「優越性の追求」の解釈にある。

自分では正しい優越性の追求を行っていると思っても、実は間違っていることが多い。

 

陥りやすい間違いの一つは、優越性の追求を「競争」だと思ってしまうことだ。

私たちは、競争社会に生きているので、ともすれば優越性の追求を他者よりも優れていることだと考えがちである。

勉強でいえば、本来は知らないことを学ぶことだから、それだけで大きな喜びに繋がるはずだが、勉強を他者との競争ととらえてしまうと、大学に進学したり、就職が決まってしまうと勉強をしなくなってしまう。また、ただ勝てばいいという考えを持つと、勝つためには手段を選ばず、不正行為をするかもしれないし、勝機がなければ挑戦しなくなる。

健全な優越性の追求とは、先の引用の言葉でいうと、自分にとっての「マイナス」から「プラス」を目指して努力することなのである。

 

 自分を基準として、真の優越性の追求をする

健全な劣等感、健全な優越性の追求は、あくまでも「自分にとって」「理想の自分と比較して」であり、他者との比較でなされるものではない。

平らな地平をみんなが先へと進もうとしている場面をイメージする。

自分より前を歩いている人もいれば、後ろを歩いている人もいる。しかし、競争ではないので、前の人を追い抜こうとしたり、後ろの人に追い抜かれたりしないようにと考える必要はない。自分がただ前を向いて確実に一歩前に足を運ぼうと意識していればそれでいいのだ。あくまでも自分が基準である。

 

アドラーは、優越性の追求について以下のように言っている。

 しかし、真に人生の課題に直面し、それを克服できる唯一の人は、その(優越性の)追求において、他のすべての人を豊かにするという傾向を見せる人、他の人も利するような仕方で前進する人である。

(第三章 劣等コンプレックスと優越コンプレックス「優越性の目標」) 

 「人生の課題に直面し、それを克服」することが優越性の追求である。

そして、ただ自分のためだけに優越性を追求するのではなく、「他のすべての人を豊かにする」、「他の人も利する」仕方で前進するのだ。

勉強の話でいえば、自分の興味を満たすためだけにするのではなく、自分の得た知識を他者のために役立てる仕方で勉強するということになる。

良い大学に入りたい、いい点数をとって認められたい、競争に勝ちたいとだけ思って勉強をするのと、社会の役に立ちたい、困っている人を助けたいと思って勉強するのでは、その原動力に大きな差が出るはずだ。

 

劣等コンプレックス、優越コンプレックスのある人の問題は、自分のことだけを考えて生きているというところにある。

自分を大きく見せようとすることは、一見他者を意識しているようだが、他者に自分がどう見られているかという点で、自分のことしか考えていない。

自分だけへの関心を、他者へ向ける。そして、他者を競争すべき「敵」ではなく、協力して生きる「仲間」と思えるようになれば、誰かの役に立ちたいという気持ちが生まれてくる。

 

他者を仲間だと意識することを、アドラーは「共同体感覚」と呼んだが、このことについては、その4あたりで記事にしようと思う。

 次回、その3は「人間関係」を予定。

アドラーは、「すべての悩みは対人関係の悩みである」と言ったが、その意味と解決法などについて書いてみるつもり。

 

 

意味づけを変えれば、過去、今、未来が変わる ~アドラー心理学 その1 - ◎晴輪雨読☆

 

 

意味づけを変えれば、過去、今、未来が変わる ~アドラー心理学 その1

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前回の性格に関する記事を受けて、勇気づけに関する記事を予定していたが、ここで一旦、自分自身の思考の整理の意味も含めて、4~5回に分けてアドラー心理学の概要をまとめてみることにした。

Eテレ「100分de名著」で過去に放送された「人生の意味の心理学」の構成を参考に書いてみる。

 

 

個人心理学

日本では創始者の名前からそのまま「アドラー心理学」と呼んでいるが、アドラー自身は「個人心理学(individual psychology)」と呼んだ。

「個人(individual)」 という言葉は、これ以上分割できないものという意味を含んでいる。

アドラーは人間を理性と感情、意識と無意識、身体と心というふうに二元論的に捉えることに反対した。したがって、個人心理学は、「分割できない全体としての人間を考察する心理学」という意味になる。

 

フロイトとの決別

大学を卒業したあと、歯科医、内科医として働いているうちに、フロイトの『夢診断』を読んだのをきっかけに精神医学に興味を持つようになる。

その後、フロイトセミナーに招かれ、その発展形である「ウィーン精神分析協会」の会長を務めるようになるが、フロイトの学説との相違から退会することになる。

 

フロイトが「リビドー(性的衝動)」がパーソナリティーの基礎であると考えたのに対し、アドラーは劣等感をリビドーに代わるものとして持ち出し、劣等感が人生に立ち向かう力を生み出すとした。また、アドラーの目的論も、心の苦しみの原因を過去と客観的な事実に見るフロイトの理論とは全く異なったものだったのだ。

さらに、第一次世界大戦の経験によって、両者は全く逆の発想に到達する。

フロイトが、「なぜ人間は闘うのか」という視点から、「人間には攻撃欲求がある」と結論づけたのに対し、アドラーは、「闘わないためには何をすべきか」という視点から「人間は仲間である」という考えに到達した。これがアドラー心理学のカギ概念である「共同体感覚」である。

 「人間には攻撃欲求があるから、戦争をする(のは仕方ない)」ではなく、「戦争をしないためにこれからどうするか」と考えたのである。

 

 意味づけは人それぞれ

「分割できない」、「劣等感」、「人間は仲間(共同体感覚)」など出てきたが、詳しくは次回以降に説明するとして、まず、アドラー心理学の特徴としてひとつ挙げてみると、人は誰もが同じ世界に生きているのではなく、自分が「意味づけ」した世界に生きていると考えることだ。

子どもの頃に不幸な経験をしたとして、人によって捉え方は異なる。

  • 「自分が不幸な経験をしたことで、それを回避する方法を学んだから、自分の子どもは同じ経験をしないように努力しよう」
  • 「自分は子どものころに苦しんだが、乗り越えた。自分の子どもも苦しさを乗り越えるべきだ」
  • 「自分は不幸な子ども時代を送ったから、何をしても許されるべきだ」

2番目の考え方は、悪い意味でのいわゆる体育会系、古臭い部活のイメージとも重なる。不合理を力で正当化する考え方ともいえる。

いずれにせよ、不幸な経験にどのような意味づけをするかによって、これからが変わる(さらには、今や過去も)。

いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショックーいわゆるトラウマーに苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。(人生の意味の心理学 21ページ)

 

 過去の経験、トラウマがあって、今の結果があると考える原因論」に立ってしまうと、すべては過去の出来事や環境によって決定されてしまうということになり、現状は変えられないことになる。

それに対し、アドラー「目的論」は、私たちが過去の経験に「(目的に応じて)どのような意味を与えるか」によって自らの生を決定していると考える

 

原因や理由は後付けだったりする

ある人に恋をする。

「この人が好きだ」と思うと、「なぜこの人を好きなのだろうか」と、好きになった理由を探した経験はないだろうか。

逆に、恋心が冷めた場合、優しいと思っていた人が優柔不断に見え、頼りがいのある人が支配的な人間に見え、几帳面できちんとした人が、神経質な人に見えることがあるだろう。

好きだと思えば、長所が見え、嫌いだと思えば、短所が見える。この場合、原因や理由は後付けである。

アドラーのいう「目的論」では、その人と関係を始めたいという「目的」があって、長所を見つけ、ある人と関係を続けたくないと思うことが、欠点を見つけるための「目的」となる。

 人の行為は、原因ですべてを説明しつくせるものではなく、自由意志が必ずあると考えるのが「目的論」といえる。

 

本当は変わりたくない?

今回は「意味づけ」という言葉がキーワードになっているが、アドラーは、世界、人生、自分に対する意味づけを「ライフスタイル」と呼んだ。

  • 自分のことを自分がどう見ているか(自己概念)
  • 他者を含む世界の現状についてどう思っているのか(世界像)
  • 自分および世界についてどんな理想を抱いているのか(自己理想)

この三つを包括した信念体系が「ライフスタイル」だ。

 

ライフスタイルは人それぞれ異なるのだが、アドラーは、五歳の終わりごろまでには自分のライフスタイルを採用すると言っている(訳者の岸見氏は十歳前後だと考えている)。

これは自分自身で選んだものなので、変えようと思えば、その後の人生で変えることができる

しかし、直感的にわかるように選びなおすのは簡単ではない。

新しいライフスタイルで人生に向き合おうとすると、たちまち未知の世界にひきこまれてしまうからだ。

 

例えば、まだそれほど親しくはないけれど、日ごろから密かに好意を抱いている人が向こうから歩いてきたとする。でも、なぜかその人がすれ違いざまに視線を逸らしてしまった。

この時、相手の行動をどう解釈(意味づけ)するか。

「私は嫌われている、避けられている」と考える人がまずいる。

だが、「風が強くてコンタクトがずれたんだろう」と考える人もいるだろうし、さらには、「私に気があるから、わざと意識して目を逸らしたのではないか」と考える人もいる。

自分に気があると考えられたら、とっても幸せだろうが、普通は避けられていると考える人が多いのではないか。なぜなら、「私など相手にされていない」と解釈したほうが、実は楽だからだ。

「目を逸らしたのは好意があるからだ」と意味づけすれば、「話しかける」という次のステップに踏み出す必要がでてくる。しかし、やっぱり勘違い(笑)で、話しかけても無視されて、傷つくかもしれない。

 

それで多くの人は未知の世界に踏み出す危険を冒すよりは、今のライフスタイル(意味づけ)で生きていきたいと思ってしまう(思うといっても無意識)。

つまり、変われないのではなく、変わりたくないのである。

  

ライフスタイルを意識化する

そうはいっても、今のライフスタイルでは生きづらい、彼女ができない、どうにかしたいと思ったら…変わるしかない。

 

では、変わるためにはどうすればいいか。

 まず、ライフスタイルを意識化することである。

一度身につけたライフスタイルは、いわば眼鏡やコンタクトレンズのようなもので、使っていることすら自分では忘れてしまっているからだ(あくまでも無意識)。 

 今自分がどんな眼鏡やコンタクトレンズを使っているか意識化するのである。

そして、意識化するために必要なのは、ライフスタイルの選択に影響を及ぼすものを知ることだ。

ライフスタイルは、本人が選択しているが、その選択に何がどのような影響を与えたかを知ることによって、別の選択肢があったこと、今も昔も相手を変えて同じことをしていることを知ることができ、新しいライフスタイルに踏み出せるからである。

 

ライフスタイルの選択に影響を及ぼすもの

では、ライフスタイルの選択に影響を与えるものをいくつかみてみる。

遺伝 

遺伝や障害は、生まれつきでもそうでなくても、影響がないということはあり得ないだろう。 

といってもアドラーはそれらの影響を重視しない(マイナスではないという意味で)。

確かに、身体の器官の弱さや、障害などのハンディキャップは、自分の能力に限界がある理由にしやすいとはいえる。

しかし、ハンディキャップを持っている人が必ずしも依存的になるわけではなく、逆に様々な分野で活躍していることからも、遺伝は決定因ではない。

アドラーが「大切なのは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかだ」と言ったのはそういうことによる。

 

環境(兄弟)

兄弟関係、生まれた順番などは、ライフスタイルの形成に影響を与えやすい。

例えば、第一子の場合、生まれてしばらくは、王子、王女として親の愛情を一身に受けることができるが、下に弟や妹が生まれると、王座から転落してしまう。この状態を、自分はお兄さん(お姉さん)だから、出来なかったことも自分でできるようにしよう、弟や妹の面倒をしっかり見ようと考えれば、責任感のある、勤勉な努力家になる。しかし、王座からの転落を恐れ、親の注目を集めるために問題行動を起こすようになったり、現状を維持するために保守的になってしまう場合もある。

第二子は、目の前に先行ランナーがいるので、追いつこう、追い越そうという動機が強くなる。そのため、第一子と競合的になりやすく、第一子と別の意味で頑張り屋になる。多くは第一子と正反対の性格になりやすい。

中間子は、すでに兄や姉がいて、ほどなく弟や妹が生まれるため、親の愛を独占したことがないという思いをもちやすい。そのため、親の注目を集めたいと思って問題行動を起こすこともあれば、それをさっさとあきらめ、自分でなんとかしようとして早く自立することもある。また、感受性が豊かで対人関係能力が高く、平和主義者で仲介者的役割、世話役になりやすいともいわれる。基本的に「承認されたい」という目標を持ちやすい。

末っ子は甘やかされて、様々なものを与えられるため、自分で努力せずに人に頼る依存的な子どもになる可能性がある一方、人懐っこい人になるかもしれない。

単独子、一人っ子は、末っ子と似ているところがあるが、兄弟がいないので競争に弱く、対人関係は苦手な人が多いといわれている。「自分は特別」という意識を持ちやすく、よくいうとユニーク、悪くいうと自分勝手という印象だ。単独子はマザーコンプレックスを発展させやすく、母親の愛を競い合うライバルとして、父親を見る(関係を悪化させる)ようになることもある。 

いずれにせよ、これらは傾向の話であり、必ずそうなるということではないことに注意を払う必要がある。

 

環境(親子)

 親子におけるライフスタイルの影響因は2つある。

一つ目は「家族価値」。

例えば、学歴を重視するのか、たくましく生きていければいいと考えるのか、といった、それぞれの家族が持っている固有の価値観のことをいう。

両親が二人とも同じ考えを持っている場合、あるいは、別々の価値観を持った両親が絶えず議論しているような場合は、家族価値は強力なものとなる。

一方、どちらか一方だけが強い価値観を持ち、片方が取り合わなければ、その価値観は子どもにもそれほど影響を与えない。

 

二つ目は「家族の雰囲気」。

家庭内で何かを決定する際のルールとでもいえるものをいう。

父、または母が権威的で常に主導権を握っている場合もあれば、親と子すべて対等に民主的に決める家庭もある。こうした家庭内のルールは、子どもが意識せずとも身につけてしまうので、自分が生まれ育った家庭とは雰囲気が大きく違った家庭で育った相手と結婚した場合に問題になることがある。自分にとっては当たり前だと思っていたことが、相手にとっては当たり前ではないということが明らかになってくるからだ。

 

対人関係に入っていく「勇気」を持つ

いくつか影響因を挙げたが、このような影響因のなかで、私たちは自分のライフスタイルを決定している。

決定因ではなく、影響因だといっても、これらはかなり強力だ。

 

「私には魅力がないし、誰も好きになってくれるはずはない」と思っていれば、人と関わる必要がない。対人関係のなかに入っていかないという「目的」を持っているので、「自分のことを嫌いでいよう」と考えてしまう。

そのような人がすべきなのは、結果を怖れず、対人関係に入っていく「勇気」を持つことだ。対人関係は悩みのもとだが、生きる喜びや幸せもまた、対人関係のなかにある

 

 しないことを過去や環境のせいにしてとどまっていることは簡単だ。しかし、ライフスタイルを選んだのは自分であるのだから、いつでも選び直せるというのがアドラーの考えである。

ライフスタイルを変えないでおこうという決心を取り下げれば、ライフスタイルは変えられるはず。

決心したら、無意識にある自分のライフスタイルを意識化する。

そしてどんなライフスタイルを選べばいいかを知り、選び直す。

 

 

 実際にどんなライフスタイルをアドラーが推奨しているかは次回以降に。

次回は生きる力の原動力となる、「劣等感」と「優越感」について書く予定。

 

 

人それぞれ一歩ずつ前へ進む 「劣等感」と「優越性の追求」 ~アドラー心理学 その2 - ◎晴輪雨読☆