人は誰でも幸福になることができる。そのために必要なのが共同体感覚。 ~アドラー心理学 その4

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アドラー心理学の概要その4。

その1では、人は誰もが同じ世界に生きているのではなく、自分が意味づけした世界に生きていること、過去の出来事で現在の状況をすべて説明することはできず、そこには隠された目的があることなどを書いた。

その2の内容は、人間を動かす原動力となっている「劣等感」と「優越性の追求」、そしてそれが行き過ぎた場合に「劣等コンプレックス」や「優越コンプレックス」により起きる問題、克服するためには、他者へ関心を向ける、他者への貢献に関するものだった。

その3では、すべての悩みは対人関係にあるが、他者を敵だと考えがちな人は、自己中心性や承認欲求が強すぎること、他者に関心を持ち、最終的に誰が責任を引き受けるか課題を分離することが必要であるという話だった。

 

 

対人関係の最終的な目標 

前回、課題の分離については、対人関係の最終的な目標ではないと書いたが、ゴールとなるのが、「共同体感覚」である。アドラー心理学のカギとなるものだ。

人は誰でも幸福になることができる。そのために必要なのが共同体感覚だ。

 

 われわれのまわりには他者がいる。そしてわれわれは他者と結びついて生きている。人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することはできない。もしも一人で生き、問題に一人で対処しようとすれば、滅びてしまうだろう。自分自身の生を続けることもできないし、人類の生も続けることはできないだろう。そこで、人は、弱さ、欠点、限界のために、いつも他者と結びついているのである。自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である。

(第一章 人生の意味「人生の三つの課題」)

  

では、具体的に共同体感覚における共同体とはどのようなものなのか。

(共同体感覚における共同体とは)さしあたって自分が所属する家族、学校、職場、社会、国家、人類というすべてであり、過去、現在、未来のすべての人類、さらには生きているもの、生きていないものも含めた、この宇宙全体を指している。

 

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100分de名著「人生の意味の心理学」より

なんとも壮大な話になっていて、一般的な心理学というものからはかけ離れたものに感じるだろう。

実際にアドラーがこの概念を使い始めたとき、心理学に科学ではないものを持ち込んでいるとして批判されたという。

ただし、アドラーはこの共同体は「到達できない理想」であるとも言っている。

 

共同体「感覚」とは

大過ぎて戸惑うところだが、共同体感覚の「共同体」は一応そのようなものとして、その次に「感覚」とはどのようなものか。 

 

アドラーは、英語の著作の中で(母語はドイツ語)、共同体感覚を「social interest」と翻訳した。「他者への関心」ということだ。

「自分への関心(執着)」(self interest)を「他者への関心」(social interest)に切り替える。他者への関心=共同体感覚を持っている人は、他者に貢献し、貢献感を持つことができるとした。それが幸福につながるというのである。

 共同体感覚を持つために必要なことは三つある。

 

自己受容

まず一つ目は「自己受容」である。

ありのままの自分を受け入れる。いいところも、悪いところも。

まずはそのまま、ありのままがスタート地点である。

自分を受け入れるためには、「自分は特別によくなくても、悪くなくてもよい」と考えることがポイントだ。

 

他者信頼

二つ目は「他者信頼」。

他者を無条件に信頼すること。条件をつけないこと。

人生では、信頼していた相手に裏切られたり、傷つけられたりすることもある。

しかし、それを恐れて対人関係のなかに入っていかなければ、誰とも深い関係に入っていくことができず、幸せになることはできない。

 

他者貢献

三つ目は「他者貢献(感)」である。

自分が役に立てている、貢献していると感じられるときに、そういう自分に価値があると思え、自分を受け入れることができる。

ここで重要なのは、他者へ貢献していると感じられるということである。

行動レベルで貢献しているということではない。行動レベルで考えてしまうと、赤ちゃんや寝たきりの老人は貢献できていないことになってしまう。

あくまでも存在レベルで考える。

赤ちゃんは何もできないが、成長していく姿を見るだけで、親は嬉しいのであり、他者へ貢献しているといえる。

寝たきりの親が生きていてくれることで、家族は嬉しく思うのであり、これも他者へ貢献しているといえる。

自分についても、生きていることで他者に喜びを与え、貢献できていると感じることが必要だ。

 

以上の三つは円環構造になる。

他者へ貢献していると感じられれば、そんな自分に価値があると思える。自分に価値があると思えれば、自分を受け入れることができる。貢献感を持つことができるためには、他者を敵ではなく、仲間として信頼していることが必要だ。

図示すると以下のようになる。

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そして、これら三つを実践していくためには、 「勇気」が必要となる。

ありのままの自分を受け入れる「勇気」、傷つくことを恐れず、他者を仲間と信じ、貢献していく「勇気」だ。

 

勇気づけ

このような勇気を持てる援助をすることを、アドラー心理学では「勇気づけ」という。

勇気づけという言葉は、他者に何かをさせようと働きかけることを連想させるが、あくまでも援助である。勇気は本人が、自分自身で持つしかない。 

 

勇気づけの基本となる言葉は、「ありがとう」だ。 

感謝の言葉をかけられれば、共同体へ貢献していることを感じることができる。

 

以下、勇気づけのポイントや方法を少し紹介する(「アドラー心理学を語る4」野田俊作より)。

貢献に注目する

「君は本当に有能だ」「えらい、よくやった」、これは相手の能力や勝ち負けということに注目している。自己への関心、執着を育てがちで、今回はうまくいっても、次に失敗したときの挫折感は大きくなる。

そうではなく、共同体への貢献に注目する。

「君のおかげでとても助かったよ」と声をかけるのが、勇気づけに繋がる。

 

過程を重視する

学校でいい成績をとってきた子どもに「いい成績だね、よかったよ。嬉しい」と言うことは、結果を重視したものになりがちだ。いい成績を取れさえすれば手段は何でもいいと思ってしまうかもしれないし、悪い成績をとると勇気をくじかれる。

ここでは、プロセス、過程を重視し、「努力したんだね、すごく頑張ったね」と声をかけたい。

 

 成果を指摘する

励ますつもりで出来ていない部分を指摘することがあるが、それも勇気をくじくことがある。「全体としてはよくできているけれども、この部分がだめだな」ではなく、「ここの部分はよくできたように思う」というような言い方をしたい。

 

成長を重視する

「ほかの子よりもよくできているね」ではなく、「この前よりも上達しているね」と言いたい。

他者と比較するのではなく、本人の成長に注目する。

 

相手に判断を委ねる

「ここはよくないよ、こうしたほうがいいよ」ではなく、「あなた自身はどこが気に入っているかな、どういうふうにすればいいと思っているかな」。

善悪をこちら側で判断して押し付けるのではなく、相手の主体的な判断を育てる。

 

「意見言葉」を使う

主観的な意見に過ぎないものを事実として言うことは、しばしば相手をくじけさせる。

「それは間違っている」「それは正しい」ではなく、「うん、そのやり方は正しいと思うな」「そういう言い方には賛成できないな」と、自分の主観的な判断であることを全面に出したほうがいい。

 

 共同体感覚の広がり

 人は誰でも幸福になることができる、そのために必要なのが共同体感覚であるとして、共同体感覚の意味やそのために必要な勇気づけについて書いてきた。

話を少し戻して、共同体感覚が過去、現在、未来にまたがり、そして人類以外のものにまで広がることをどう考えるか。

寝たきりの病人について、存在そのもので家族が嬉しく思うことで貢献していると書いたが、そもそも現在の行動や存在だけが、貢献であると考える必要はないだろう。

例えば、その病人の方が、元気で健康な頃、自分の子どもや職場の後輩に自分自身の経験や知識、そして想いを伝えていたとする。それは「愛」と言ってもいいかもしれないが、子どもや後輩のなかにそれは受け継がれていき、次の世代に伝わっていく。過去の行為が、現在も息づき、現役世代が受け継ぎながら貢献している。これは、現役世代だけではなく、病人の方の現在の貢献とも言えるのではないか。

病人の方の過去の行為や存在が、現在の人々、そして将来の世代に貢献すると考えることができるのである。

そもそも私たちが生きているこの社会は、過去の数多の先人たちの努力により成り立っているはずだ。

また、些細なことだが、買い物をするときにエコバックを持参することは、誰のためなのだろうか。自分や家族だけのためではないし、社会のためと言ってしまえば、そのような感じもするが、環境のことを考えると、人類だけのためではないだろう。

 

理想だけが現実を変える力を持つ

アドラー第一次世界大戦に従軍した悲惨な経験から、どうすれば戦争のない世の中になるかと考えた。

そのなかで共同体感覚の概念が生まれ、人々が自分だけに関心を持つのではなく、他者に関心を持ち、他者に貢献しようと思えることが必要だと説いた。

そして、そのためには教育が重要であるとして、子どもたちの教育に熱心に取り組んだが、すべての人間は対等であり、横の関係であることが重要であるとした。親と子、教師と生徒、上司と部下、すべて横の関係であり、人間の価値に上下はなく、誰もが同じ権利を持っているので、誰かが誰かを手段として扱うことはできないのである。

ほめることや叱ることに否定的なのは、それが自然と縦の関係になりやすく、他者をコントロールしたり、虐げることに繋がるからであった。

 

最後に、100分de名著「人生の意味の心理学」で岸見氏は以下のように述べている。

 アドラーのいう「共同体感覚」は理想であり、すべての人が他者を仲間と見なして、互いに協力しあう世界が、そう簡単に出現するとは思えません。しかし、実現していないから理想なのであって、理想だけがこの現実を変える力を持っているのです。現実はこうなのだと現実を追認するだけでは世界は変わりません。今後、アドラーの思想に触れて、対等であるとは何なのかと考える人が増えていけば、世界はいい方向に向かっていくはずだと私は考えています。そのためには、自分は日々の生活の中で何ができるかを考えていかなければなりません。

 

 

 あと一回、補足的なものを書くかな…(未定)

 

 

勇気づけの方法 (アドラー心理学を語る4)

勇気づけの方法 (アドラー心理学を語る4)

 

 

 

悩みの源泉は対人関係にあるが、生きる喜びや幸せもまた、対人関係にある ~アドラー心理学 その3

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前回は、人間を動かす原動力になっている「劣等感」や「優越性の追求」について書いた。これらがあるからこそ、人は今よりも優れた存在になろうと課題に立ち向かったり、努力したりする。しかし、それが強すぎると逆に課題から遠ざかろうとする。

前回の記事で、「課題」という言葉を何度か使ったが、アドラーは人生で直面する課題を「ライフタスク」といい、仕事のタスク、交友のタスク、愛のタスクがあるとした(最近はここに自己や、精神世界を加える考え方もある)。

このライフタスク、簡単にいうと、対人関係の課題といっていいと思う。

今回はその対人関係について。

 

 

すべての悩みは対人関係

アドラーは、「すべての悩みは対人関係の悩みである」と考えた。

もし、自分がこの宇宙で一人で生きているのであれば、そこに善悪はなく、言葉も不要である。自分の外見も気にならないはずだ。

しかし、誰か一人でも他者がいるなら、対人関係を考えなくてはならなくなる。

 

対人関係の問題は、他者を自分の行く手を遮る存在、「敵」と見なすことから生まれる。これは、親子関係、夫婦関係、友人関係、職場の対人関係すべてに言える。

教えたとおりにやってくれない、やってほしいことがあるが気づいてくれない、指示に従わない、いつも嫌なことを言われるから避けたい、こういった思いが積み重なると、次第に相手を「敵」と見なすようになってしまうのだ。

 

なぜそう思ってしまうのか。

その1で触れた目的論で考えると、「他者との関係に入っていきたくない」という目的があるからということになる。

「敵」のなかに入っていくと、摩擦が生まれ、嫌われたり、裏切られたりして傷つく可能性があるため、それを避けるのだ。

 

しかし、対人関係は悩みの源泉ではあるが、生きる喜びや幸せも、対人関係のなかにある

幸せになるには、対人関係を避けるのではなく、まず、敵だと思っている他者に対する意味づけを変える必要がある

 

「自分が世界の中心にいる」という誤り

他者を敵だと考える人の多くに共通しているのが、「自分が世界の中心にいる(いたい)」という意識を持っていることだ。

自分が世界の中心だと考えてしまう人は、子どもの頃に甘やかされて育った経験を持っていることが多いが、アドラーは甘やかしの危険について次のようにいっている。

 

 甘やかされた子どもは、自分の願いが法律になることを期待するように育てられる。(中略)その結果、自分が注目の中心でなかったり、他の人が彼[女]の感情に気を配ることを主な目的にしない時には、いつも大いに当惑することになる。

(第一章 人生の意味「子ども時代の経験」)

 

幼い頃に親に甘やかされ、何でも与えられて育つと、やがて自分がなんの努力をしなくても、他者から与えられることを当然と思い、他者が自分に何をしてくれるかにしか関心がない人間に成長してしまう。

そういう人間は、自分が望むことを人から与えられているうちは機嫌がいいが、そうでなくなると、(自分の意に沿った行動をさせるために)不機嫌になったり、他者に攻撃的になったりする。

 

承認欲求

自分が世界の中心であると考えて育った人は、ほめられたり、注目されてきたために、「承認欲求」が強くなりやすい。(訳者の岸見氏は承認欲求を持つようになるのは、賞罰教育による影響もあると考えている。)

(※個人的には、承認欲求は誰にでもあるが、強すぎることが問題だと思う。)

承認欲求が強すぎる人は、ほめられない(承認されない)とわかると、適切な行動をしなかったり、ほめられる(承認される)ために、不正行為を行ったりする。

 また、怒られそうならやるし、怒られないならやらないということにもなる。

承認されなくても何かをしなければならない場面は人生の中に多々ある。

岸見氏によれば、介護は承認欲求がある(強い)人にはつらいものになるという。

なぜなら、親から「ありがとう」という言葉をかけられることは期待できないからだ。

 

仕事では、裏方や人が嫌がることをしなければならない仕事、職位が上がれば上がるほど、 認められることは少ないだろう(よいしょは別として)。

そんな仕事をしている人が、褒められたり、認められることを求めるようになると、仕事は苦役になってしまう。

 

脱却する方法

では、承認欲求や世界の中心に自分がいるという意識から脱却するためにはどうしたらいいか。

まず一つ目は、他者に関心を持つことだ。

自分にしか関心がない人は、他者の発言や行動を見ても、もしも自分だったらどうするだろうかという自分目線でものを考えてしまうので、多くの場合、正しく他者を理解することはできない。

(限界はあるが)「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」よう努めなければならないとアドラーはいっている。

 

次に、他者は自分の期待を満たすために生きているのではないことを知ることだ。

他者からよく思われないことを怖れて、他者の期待を満たそうとする人は、自分の人生ではなく、他者の望む人生を歩んでしまうことになる。自分の人生を生きるのであれば、他者との摩擦は必ず起こるし、嫌われることもあるだろう。

自分の人生を生きる決心をすれば、他者から承認される必要はなくなる

同じ理由で、自分が他者の期待を満たすために生きているのでないとすれば、同じ権利を他者にも認めなければならない。

このことを理解できれば、他者が自分の思うようなことをしてくれなくても、不愉快に思ったり、憤りを感じることは少なくなるだろう。

 

「課題の分離」

三つ目は「課題の分離」だ。

あることの最終的な結末が誰に降りかかるか、その責任を最終的に誰が引き受けなければならないかを考えるのが課題の分離である。

 

子どもが勉強をしないことに悩む親は多いが、勉強をすることは誰の課題か。

勉強をしなくて困るのは誰か、その責任を引き受けるのは誰か。

子どもである。

勉強は親ではなく、子どもの課題だ。

 

対人関係のトラブルは、他者の課題に踏み込んだり、踏み込まれることによって起こる。

親が「勉強しなさい」ということは、子どもの課題に踏み込んでいることになるのだ。

だから、たいていの場合は、反発して勉強しない(やっても、やったふりだったり、気が入っていない)。

 

親ができるのは、子どもが勉強を自分の課題と認識し、取り組む決意をしたときに、その環境を整える(援助する)ことだ。

また、前回の記事の「優越性の追求」のなかで少し触れたが、勉強は自分だけのためにするのではなく、他者に貢献することに繋がること、他者に貢献することの素晴らしさを教えていくことも親ができることだろう。

しかし、勉強するかしないかは、あくまで子どもの課題である。

子どもは、親の期待を満たすために生きているわけではないのだ。

 

ときには課題を共有することも必要

課題の分離というと、自分の課題は自分で解決するしかない、というとても厳しい話に聞こえる。もちろん厳しい面もあるが、必ずしもそれがすべてではない。

 

そもそも、課題を分離することは、対人関係の最終の目標ではない

現状は、糸がもつれたような状態になっているので、何が誰の課題かを見極めたうえで、自分だけでは解決できない問題は他者に協力を求めていい。

これをアドラー心理学では「共同の課題にする」という。

 

子どもの勉強でいえば、最近の成績のことについて話したいという。

話の内容を予見し、身構えるかもしれないが、共同の課題にするためには、手続きを踏むことが必要だ。

また、このような話がしやすくなるよう、日ごろから関係を良くしておくことも大事になる。

ここで、共同の課題にしようといいながら、自分の思うように子どもを操作、支配しようとしていないかには注意を要する。

 

 

「課題を分離することは、対人関係の最終の目標ではない」と書いたが、では最終の目標は何か。ここで、「共同体感覚」という最も重要な概念がでてくる。

次回は共同体感覚、勇気づけなどについて書く予定。

 

 

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人それぞれ一歩ずつ前へ進む 「劣等感」と「優越性の追求」 ~アドラー心理学 その2

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前回は、「意味づけを変えれば、過去、今、未来が変わる」と題して、目的論やライフスタイルについて紹介した。

 今回は、人間を動かす原動力となっている「劣等感」と「優越性の追求」について書く。

 

 

優越性の追求は人間の普遍的な欲求

人は誰でも自分のためになることを追求して生きている。 

この自分のためになること、今よりも優れた存在になりたいと思いながら生きていくことを、アドラーは「優越性の追求」と呼び、人間の普遍的な欲求であると考えた。

 すべての人を動機づけ、われわれがわれわれの文化へなすあらゆる貢献の源泉は、優越性の追求である。人間の生活の全体は、この活動の太い線に沿って、即ち、下から上へ、マイナスからプラスへ、敗北から勝利へと進行する。

(『人生の意味の心理学』第三章 劣等コンプレックスと優越コンプレックス「優越性の目標」)

 

優越性の追求と対をなすのが「劣等感」である。

アドラー心理学では、優越性の追求と劣等感は誰もが持っていて、どちらも努力と成長への刺激になると考える。

一般に、劣等感というと、他者との比較で考えがちだが、ここでいう劣等感はそうではなく、「理想の自分と現実の自分との比較」から生じるものである。

アドラーはこの劣等感こそが、人類のあらゆる進歩の原動力になっていると考えた。

 

見かけの因果律と劣等コンプレックス

劣等感や優越性の追求は、人間や世界にとって有用だが、一方でアドラーは、強すぎる劣等感や優越性の追求を、「劣等コンプレックス」、「優越コンプレックス」と呼び、人生に有用でないとしている。

 

 まず、劣等コンプレックスは、劣等感を「言い訳」に使う状態だ。

「AであるからBができない」、「AでないからBができない」という論理を日常で多用する。

トラウマがあって、チャレンジしようとすると足がすくむ、お腹が痛いので学校に行けない、背が低いから、収入が低いからもてない…

これらは、実際には因果関係はない。Aだから必ずBになるかといえば、そうではないからだ。これをアドラーは「見かけの因果律」と呼んだ。

劣等コンプレックスは、見かけの因果律を立てて、人生の課題から逃げようとするのだ。

本来、劣等感は建設的に補償するしかない。

自分が理想とする状況に達していないと思った場合は、もっと勉強しよう、もっと努力しようと考えて前に進むしかないのだ。

 

優越コンプレックス

優越コンプレックスは劣等コンプレックスと対になる。

自分を実際よりも優れているように見せようとするのが、優越コンプレックスの特徴だ。

学歴や肩書きを誇示する、高価なブランド品で身を飾る、過去の栄光の話ばかりする、知り合いの手柄を自分の手柄のように話す人は、優越コンプレックスがあると考えていいだろう。

自分が優れていることを強調し、他者に誇示する人にとっては、実際に優れているかどうかは問題でなくなってくる。ただ「他者よりも優れていると見えること」が重要になり、絶えず他者の評価を気にかけ、他者からの期待に応えようとする。

 

また、優越コンプレックスを持つ人のなかには、自分を誇示するのではなく、他者の価値を貶めることで、相対的に自分を上に置こうとする人もいる。

 例えば、パワハラをしたり、理不尽に部下を叱りつける上司がそれにあたる。

本来的な仕事の部分では実は自信がないので、叱りつけて優位に立とうとするのだ。

アドラーは、こういった他者の価値を落として自分が優位に立とうとすることを「価値低減傾向」と呼んでいる。

いじめや差別も価値低減傾向がある人が引き起こすといっていいだろう。

いじめる側、差別する側の人は、強い劣等感を持っていて、自分よりも弱い人をいじめたり、差別することで相対的に自分を上に位置づけようとする。

したがって、「いじめは人間として恥ずかしい行為、絶対にやめよう」とだけ言っても解決しない。いじめる側、差別する側の人に、自分に価値があると思えるようになる援助が必要になってくるのだ。

 

ちなみに、優越コンプレックスを持った上司にあたったらどうするか。

萎縮せず、普通に接すること」だ(容易ではないが)。

仕事の場面では、誰が言っているかではなく、何が言われているかに注目すればいい。

優越コンプレックスを持っている人は、いわば常につま先立ちで背伸びをしているようなもの。実は自分自身もつらい

だから部下が普通に接すると、その人の前では背伸びをする必要がないと思うようになり、行動が変化する可能性がある。

 

優越性の追求をどのように考えるか

劣等コンプレックスや優越コンプレックスについて、自分自身にも思い当たる方が多いのではないだろうか。私自身、見かけの因果律なんて、頻繁に使っている気すらする。

 私たちはなぜ、気づかないうちに劣等コンプレックスや優越コンプレックスに陥ってしまうのか。何を目的としてそうなるのか。

それは「優越性の追求」の解釈にある。

自分では正しい優越性の追求を行っていると思っても、実は間違っていることが多い。

 

陥りやすい間違いの一つは、優越性の追求を「競争」だと思ってしまうことだ。

私たちは、競争社会に生きているので、ともすれば優越性の追求を他者よりも優れていることだと考えがちである。

勉強でいえば、本来は知らないことを学ぶことだから、それだけで大きな喜びに繋がるはずだが、勉強を他者との競争ととらえてしまうと、大学に進学したり、就職が決まってしまうと勉強をしなくなってしまう。また、ただ勝てばいいという考えを持つと、勝つためには手段を選ばず、不正行為をするかもしれないし、勝機がなければ挑戦しなくなる。

健全な優越性の追求とは、先の引用の言葉でいうと、自分にとっての「マイナス」から「プラス」を目指して努力することなのである。

 

 自分を基準として、真の優越性の追求をする

健全な劣等感、健全な優越性の追求は、あくまでも「自分にとって」「理想の自分と比較して」であり、他者との比較でなされるものではない。

平らな地平をみんなが先へと進もうとしている場面をイメージする。

自分より前を歩いている人もいれば、後ろを歩いている人もいる。しかし、競争ではないので、前の人を追い抜こうとしたり、後ろの人に追い抜かれたりしないようにと考える必要はない。自分がただ前を向いて確実に一歩前に足を運ぼうと意識していればそれでいいのだ。あくまでも自分が基準である。

 

アドラーは、優越性の追求について以下のように言っている。

 しかし、真に人生の課題に直面し、それを克服できる唯一の人は、その(優越性の)追求において、他のすべての人を豊かにするという傾向を見せる人、他の人も利するような仕方で前進する人である。

(第三章 劣等コンプレックスと優越コンプレックス「優越性の目標」) 

 「人生の課題に直面し、それを克服」することが優越性の追求である。

そして、ただ自分のためだけに優越性を追求するのではなく、「他のすべての人を豊かにする」、「他の人も利する」仕方で前進するのだ。

勉強の話でいえば、自分の興味を満たすためだけにするのではなく、自分の得た知識を他者のために役立てる仕方で勉強するということになる。

良い大学に入りたい、いい点数をとって認められたい、競争に勝ちたいとだけ思って勉強をするのと、社会の役に立ちたい、困っている人を助けたいと思って勉強するのでは、その原動力に大きな差が出るはずだ。

 

劣等コンプレックス、優越コンプレックスのある人の問題は、自分のことだけを考えて生きているというところにある。

自分を大きく見せようとすることは、一見他者を意識しているようだが、他者に自分がどう見られているかという点で、自分のことしか考えていない。

自分だけへの関心を、他者へ向ける。そして、他者を競争すべき「敵」ではなく、協力して生きる「仲間」と思えるようになれば、誰かの役に立ちたいという気持ちが生まれてくる。

 

他者を仲間だと意識することを、アドラーは「共同体感覚」と呼んだが、このことについては、その4あたりで記事にしようと思う。

 次回、その3は「人間関係」を予定。

アドラーは、「すべての悩みは対人関係の悩みである」と言ったが、その意味と解決法などについて書いてみるつもり。

 

 

意味づけを変えれば、過去、今、未来が変わる ~アドラー心理学 その1 - ◎晴輪雨読☆

 

 

意味づけを変えれば、過去、今、未来が変わる ~アドラー心理学 その1

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前回の性格に関する記事を受けて、勇気づけに関する記事を予定していたが、ここで一旦、自分自身の思考の整理の意味も含めて、4~5回に分けてアドラー心理学の概要をまとめてみることにした。

Eテレ「100分de名著」で過去に放送された「人生の意味の心理学」の構成を参考に書いてみる。

 

 

個人心理学

日本では創始者の名前からそのまま「アドラー心理学」と呼んでいるが、アドラー自身は「個人心理学(individual psychology)」と呼んだ。

「個人(individual)」 という言葉は、これ以上分割できないものという意味を含んでいる。

アドラーは人間を理性と感情、意識と無意識、身体と心というふうに二元論的に捉えることに反対した。したがって、個人心理学は、「分割できない全体としての人間を考察する心理学」という意味になる。

 

フロイトとの決別

大学を卒業したあと、歯科医、内科医として働いているうちに、フロイトの『夢診断』を読んだのをきっかけに精神医学に興味を持つようになる。

その後、フロイトセミナーに招かれ、その発展形である「ウィーン精神分析協会」の会長を務めるようになるが、フロイトの学説との相違から退会することになる。

 

フロイトが「リビドー(性的衝動)」がパーソナリティーの基礎であると考えたのに対し、アドラーは劣等感をリビドーに代わるものとして持ち出し、劣等感が人生に立ち向かう力を生み出すとした。また、アドラーの目的論も、心の苦しみの原因を過去と客観的な事実に見るフロイトの理論とは全く異なったものだったのだ。

さらに、第一次世界大戦の経験によって、両者は全く逆の発想に到達する。

フロイトが、「なぜ人間は闘うのか」という視点から、「人間には攻撃欲求がある」と結論づけたのに対し、アドラーは、「闘わないためには何をすべきか」という視点から「人間は仲間である」という考えに到達した。これがアドラー心理学のカギ概念である「共同体感覚」である。

 「人間には攻撃欲求があるから、戦争をする(のは仕方ない)」ではなく、「戦争をしないためにこれからどうするか」と考えたのである。

 

 意味づけは人それぞれ

「分割できない」、「劣等感」、「人間は仲間(共同体感覚)」など出てきたが、詳しくは次回以降に説明するとして、まず、アドラー心理学の特徴としてひとつ挙げてみると、人は誰もが同じ世界に生きているのではなく、自分が「意味づけ」した世界に生きていると考えることだ。

子どもの頃に不幸な経験をしたとして、人によって捉え方は異なる。

  • 「自分が不幸な経験をしたことで、それを回避する方法を学んだから、自分の子どもは同じ経験をしないように努力しよう」
  • 「自分は子どものころに苦しんだが、乗り越えた。自分の子どもも苦しさを乗り越えるべきだ」
  • 「自分は不幸な子ども時代を送ったから、何をしても許されるべきだ」

2番目の考え方は、悪い意味でのいわゆる体育会系、古臭い部活のイメージとも重なる。不合理を力で正当化する考え方ともいえる。

いずれにせよ、不幸な経験にどのような意味づけをするかによって、これからが変わる(さらには、今や過去も)。

いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショックーいわゆるトラウマーに苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。(人生の意味の心理学 21ページ)

 

 過去の経験、トラウマがあって、今の結果があると考える原因論」に立ってしまうと、すべては過去の出来事や環境によって決定されてしまうということになり、現状は変えられないことになる。

それに対し、アドラー「目的論」は、私たちが過去の経験に「(目的に応じて)どのような意味を与えるか」によって自らの生を決定していると考える

 

原因や理由は後付けだったりする

ある人に恋をする。

「この人が好きだ」と思うと、「なぜこの人を好きなのだろうか」と、好きになった理由を探した経験はないだろうか。

逆に、恋心が冷めた場合、優しいと思っていた人が優柔不断に見え、頼りがいのある人が支配的な人間に見え、几帳面できちんとした人が、神経質な人に見えることがあるだろう。

好きだと思えば、長所が見え、嫌いだと思えば、短所が見える。この場合、原因や理由は後付けである。

アドラーのいう「目的論」では、その人と関係を始めたいという「目的」があって、長所を見つけ、ある人と関係を続けたくないと思うことが、欠点を見つけるための「目的」となる。

 人の行為は、原因ですべてを説明しつくせるものではなく、自由意志が必ずあると考えるのが「目的論」といえる。

 

本当は変わりたくない?

今回は「意味づけ」という言葉がキーワードになっているが、アドラーは、世界、人生、自分に対する意味づけを「ライフスタイル」と呼んだ。

  • 自分のことを自分がどう見ているか(自己概念)
  • 他者を含む世界の現状についてどう思っているのか(世界像)
  • 自分および世界についてどんな理想を抱いているのか(自己理想)

この三つを包括した信念体系が「ライフスタイル」だ。

 

ライフスタイルは人それぞれ異なるのだが、アドラーは、五歳の終わりごろまでには自分のライフスタイルを採用すると言っている(訳者の岸見氏は十歳前後だと考えている)。

これは自分自身で選んだものなので、変えようと思えば、その後の人生で変えることができる

しかし、直感的にわかるように選びなおすのは簡単ではない。

新しいライフスタイルで人生に向き合おうとすると、たちまち未知の世界にひきこまれてしまうからだ。

 

例えば、まだそれほど親しくはないけれど、日ごろから密かに好意を抱いている人が向こうから歩いてきたとする。でも、なぜかその人がすれ違いざまに視線を逸らしてしまった。

この時、相手の行動をどう解釈(意味づけ)するか。

「私は嫌われている、避けられている」と考える人がまずいる。

だが、「風が強くてコンタクトがずれたんだろう」と考える人もいるだろうし、さらには、「私に気があるから、わざと意識して目を逸らしたのではないか」と考える人もいる。

自分に気があると考えられたら、とっても幸せだろうが、普通は避けられていると考える人が多いのではないか。なぜなら、「私など相手にされていない」と解釈したほうが、実は楽だからだ。

「目を逸らしたのは好意があるからだ」と意味づけすれば、「話しかける」という次のステップに踏み出す必要がでてくる。しかし、やっぱり勘違い(笑)で、話しかけても無視されて、傷つくかもしれない。

 

それで多くの人は未知の世界に踏み出す危険を冒すよりは、今のライフスタイル(意味づけ)で生きていきたいと思ってしまう(思うといっても無意識)。

つまり、変われないのではなく、変わりたくないのである。

  

ライフスタイルを意識化する

そうはいっても、今のライフスタイルでは生きづらい、彼女ができない、どうにかしたいと思ったら…変わるしかない。

 

では、変わるためにはどうすればいいか。

 まず、ライフスタイルを意識化することである。

一度身につけたライフスタイルは、いわば眼鏡やコンタクトレンズのようなもので、使っていることすら自分では忘れてしまっているからだ(あくまでも無意識)。 

 今自分がどんな眼鏡やコンタクトレンズを使っているか意識化するのである。

そして、意識化するために必要なのは、ライフスタイルの選択に影響を及ぼすものを知ることだ。

ライフスタイルは、本人が選択しているが、その選択に何がどのような影響を与えたかを知ることによって、別の選択肢があったこと、今も昔も相手を変えて同じことをしていることを知ることができ、新しいライフスタイルに踏み出せるからである。

 

ライフスタイルの選択に影響を及ぼすもの

では、ライフスタイルの選択に影響を与えるものをいくつかみてみる。

遺伝 

遺伝や障害は、生まれつきでもそうでなくても、影響がないということはあり得ないだろう。 

といってもアドラーはそれらの影響を重視しない(マイナスではないという意味で)。

確かに、身体の器官の弱さや、障害などのハンディキャップは、自分の能力に限界がある理由にしやすいとはいえる。

しかし、ハンディキャップを持っている人が必ずしも依存的になるわけではなく、逆に様々な分野で活躍していることからも、遺伝は決定因ではない。

アドラーが「大切なのは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかだ」と言ったのはそういうことによる。

 

環境(兄弟)

兄弟関係、生まれた順番などは、ライフスタイルの形成に影響を与えやすい。

例えば、第一子の場合、生まれてしばらくは、王子、王女として親の愛情を一身に受けることができるが、下に弟や妹が生まれると、王座から転落してしまう。この状態を、自分はお兄さん(お姉さん)だから、出来なかったことも自分でできるようにしよう、弟や妹の面倒をしっかり見ようと考えれば、責任感のある、勤勉な努力家になる。しかし、王座からの転落を恐れ、親の注目を集めるために問題行動を起こすようになったり、現状を維持するために保守的になってしまう場合もある。

第二子は、目の前に先行ランナーがいるので、追いつこう、追い越そうという動機が強くなる。そのため、第一子と競合的になりやすく、第一子と別の意味で頑張り屋になる。多くは第一子と正反対の性格になりやすい。

中間子は、すでに兄や姉がいて、ほどなく弟や妹が生まれるため、親の愛を独占したことがないという思いをもちやすい。そのため、親の注目を集めたいと思って問題行動を起こすこともあれば、それをさっさとあきらめ、自分でなんとかしようとして早く自立することもある。また、感受性が豊かで対人関係能力が高く、平和主義者で仲介者的役割、世話役になりやすいともいわれる。基本的に「承認されたい」という目標を持ちやすい。

末っ子は甘やかされて、様々なものを与えられるため、自分で努力せずに人に頼る依存的な子どもになる可能性がある一方、人懐っこい人になるかもしれない。

単独子、一人っ子は、末っ子と似ているところがあるが、兄弟がいないので競争に弱く、対人関係は苦手な人が多いといわれている。「自分は特別」という意識を持ちやすく、よくいうとユニーク、悪くいうと自分勝手という印象だ。単独子はマザーコンプレックスを発展させやすく、母親の愛を競い合うライバルとして、父親を見る(関係を悪化させる)ようになることもある。 

いずれにせよ、これらは傾向の話であり、必ずそうなるということではないことに注意を払う必要がある。

 

環境(親子)

 親子におけるライフスタイルの影響因は2つある。

一つ目は「家族価値」。

例えば、学歴を重視するのか、たくましく生きていければいいと考えるのか、といった、それぞれの家族が持っている固有の価値観のことをいう。

両親が二人とも同じ考えを持っている場合、あるいは、別々の価値観を持った両親が絶えず議論しているような場合は、家族価値は強力なものとなる。

一方、どちらか一方だけが強い価値観を持ち、片方が取り合わなければ、その価値観は子どもにもそれほど影響を与えない。

 

二つ目は「家族の雰囲気」。

家庭内で何かを決定する際のルールとでもいえるものをいう。

父、または母が権威的で常に主導権を握っている場合もあれば、親と子すべて対等に民主的に決める家庭もある。こうした家庭内のルールは、子どもが意識せずとも身につけてしまうので、自分が生まれ育った家庭とは雰囲気が大きく違った家庭で育った相手と結婚した場合に問題になることがある。自分にとっては当たり前だと思っていたことが、相手にとっては当たり前ではないということが明らかになってくるからだ。

 

対人関係に入っていく「勇気」を持つ

いくつか影響因を挙げたが、このような影響因のなかで、私たちは自分のライフスタイルを決定している。

決定因ではなく、影響因だといっても、これらはかなり強力だ。

 

「私には魅力がないし、誰も好きになってくれるはずはない」と思っていれば、人と関わる必要がない。対人関係のなかに入っていかないという「目的」を持っているので、「自分のことを嫌いでいよう」と考えてしまう。

そのような人がすべきなのは、結果を怖れず、対人関係に入っていく「勇気」を持つことだ。対人関係は悩みのもとだが、生きる喜びや幸せもまた、対人関係のなかにある

 

 しないことを過去や環境のせいにしてとどまっていることは簡単だ。しかし、ライフスタイルを選んだのは自分であるのだから、いつでも選び直せるというのがアドラーの考えである。

ライフスタイルを変えないでおこうという決心を取り下げれば、ライフスタイルは変えられるはず。

決心したら、無意識にある自分のライフスタイルを意識化する。

そしてどんなライフスタイルを選べばいいかを知り、選び直す。

 

 

 実際にどんなライフスタイルをアドラーが推奨しているかは次回以降に。

次回は生きる力の原動力となる、「劣等感」と「優越感」について書く予定。

 

 

人それぞれ一歩ずつ前へ進む 「劣等感」と「優越性の追求」 ~アドラー心理学 その2 - ◎晴輪雨読☆

 

 

 

性格は、人がどんなふうにこの世界に向き合うかという方法 ~『性格はいかに選択されるのか』 アドラー心理学

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「私は生まれつき、こんな性格だから」

「短気なのは父親の血を受け継いでいるからだ」

「子どものときのあの出来事が原因で、私の性格はこうなった」

「ネクラ、ネアカ」

 

自分や他者の性格、あるいは自身が困難にぶつかったとき、このようなことを考えたり、話したりすることがある。

遺伝や育った環境、過去の出来事に「原因」を求める考え方だ。

 

性格はどのように形成されるのか。

アドラーは、性格は、遺伝や環境によって形成されるのではなく、自由意志によって選択されるものだしている。

本書は、アドラーの著作のなかから、性格に関して書かれていることを、訳者が抜き出し、注釈を加えるかたちでまとめられている(『性格はいかに選択されるのか』・アルフレッド・アドラー・岸見一郎 訳・注釈)。

 

 

 必要なのは真の原因を探しだすこと

自分が犯した過ちを、過去の(自分にとって)不幸な出来事や環境を原因にする人がいる。では、他の人も同じようなことを経験したら、同じ過ちを犯すといえるだろうか。

 

そうではないだろう。このような、実際には因果関係がないのに、因果関係があるかのように見なすことを、アドラーは「見かけの因果律」と呼んだ。

今となっては戻れない過去の出来事を持ち出したり、性格や遺伝を持ち出すことは、現状を変えられないことを前提にしているように見える。

 

過去の経験が「真の原因」であるかのように見たり、問題を事後的に説明することに終始するだけでは、心理学は無力なものでしかないだろう。必要なことは「本当の原因」を探すことにある。 

 

アドラーは、人の行動はすべて目標(目的)によって確定されるという。

人間は行動する際、一つの行動しか選べないわけではない。

自らの目標に沿って、行動を選択しているのだ。

 

例えば、「私は短気である」という人がいたとする。

その人は、他者を自分の意志に従わせるなど、なんらかの目的があって短気という手段(性格)を選択していると考えるのだ。

 

性格とは何か

 人は誰も一人で生きていけるわけではなく、対人関係から離れることはできない。この対人関係が、課題(人生の課題)として人の前に現れ、それに対してどのように取り組むか、どれくらい距離をとっているのかをアドラーは「性格」という言葉で理解している。

簡単にいうと、他者との関係にどのような対応をするかを「性格」と言っている。

 一人で生きているのであれば、性格は問題にならない。誰かの前で、誰かとの関係の中で、性格を決めている。生まれつき備わったものではないのだ。

性格は、「人がどんなふうにこの世界と向き合うかという方法」といえる。

  

共同体感覚

では、人が世界に向き合う方法とはどのようなものか。

 

人の根源的な欲求は共同体への所属感である。

 人は、社会、組織、家族など、なんらかの共同体に所属していることを感じていたい。

だが、その所属感を満たす方法は人によって異なる。

承認されることで満たすのもその一つだ。

 しかし、承認には終わりがなく、他者からの承認を求めるがゆえに、他者の望む人生を歩んでしまうことになる。

 

アドラーは、「他者に貢献すること」で所属感を満たす必要があるとしている。

それは、アドラー心理学のカギ概念である「共同体感覚」につながる。

 共同体感覚は難しい概念なので、ここでは簡単に、人と人が仲間として結びついていると感じられ、仲間に貢献していくことと理解するとしよう。

どんな性格を選ぶにしても、共同体感覚を基準として、それに照らして、どのように生きていくかを考えていきたいとうことなのである。

言い換えれば、人と人が仲間として結びついていると感じられ、仲間に貢献していくことを基本的な価値観として、世界に向き合いたいということだ。

  

性格のタイプ分け

以上は総論的なものだが、個別の性格のタイプ分けも紹介されている。

もっとも、アドラーは個人をタイプに分ける場合は、その人を型にはめて理解した気にならないよう注意しなければならないという。

あくまでも「個人の類似性について、よりよく理解するための手段」として利用する。

 以下いくつか紹介する。

 

楽観主義者

まずは楽観主義者。

比較的わかりやすい文章なのでそのまま引用する。

楽観主義者は、性格の発達が全体として真っ直ぐな方向を取る人のことである。彼らは、あらゆる困難に勇敢に立ち向かい、深刻に受け止めない。自信を持ち、人生に対する有利な立場を容易に見出してきた。過度に要求することもない。自己評価が高く、自分が取るに足らないとは感じていないからである。そこで、彼らは、人生の困難に、自分を弱く、不完全であると見なすきっかけを見出すような他の人よりも容易に耐えることができ、困難な状況にあっても、誤りは再び償うことができると確信して、冷静でいられる。(『性格の心理学』21~22ページ)

 

また、子どもの教育について以下のように言っている。

勇気があり、忍耐強く、自信を持ち、失敗は決して勇気をくじくものではなく、新しい課題として取り組むべきものであると考えるように教育する方がずっと重要である。(『子どもの教育』42ページ)

 失敗したときに、自分が弱く、不完全であるとみなしてしまえば、悲嘆に暮れたり、そのように反省しているように見せることはあっても、失敗の責任を取ることはしないだろう。

失敗しない人などいない。

大事なのは、失敗しても、深刻に受け止めず、新たな課題として受け止め、再びチャレンジできるものとして、勇敢に立ち向かう人を育てたいといううことである。

 

悲観主義

次に悲観主義

このタイプの人は、子ども時代の体験と印象から劣等感を持ち、あまりの困難のゆえに、人生は容易ではないと感じるようになったのである。正しくない扱いによってひとたび養われた悲観的な世界観の勢力範囲の中で、彼らのまなざしは、常に人生の影の面に向けられ、楽観主義者よりも、人生の困難を意識し、容易に勇気を失う(『性格の心理学』123ページ)

同じことを経験しても、それに勇気をもって立ち向かう人もいれば、立ち去ってしまう人もいる。

悲観主義者は、同じことを経験しても、そのまなざしは「常に人生の影の面に向けられ」、「人生の困難を意識」し、勇気を失って立ち去ってしまうのである。

 ここで重要なことは、何か困難があったから悲観主義者になるのではなく、課題に直面しないために悲観主義になるということである。

 

攻撃的性格

攻撃的性格においては、「虚栄心」がキーワードになる。

このような人が絶えず示す軽蔑や侮蔑をわれわれは価値低減傾向と呼んでいる。その傾向は、虚栄心のある人にとって、そもそも何が攻撃点かを示している。他者の価値と重要性である。それは、他者を没落させることで、優越感を創り出す試みである(『性格の心理学』49ページ)

なぜ他者の価値を落として優越感を得るのか。

それは、虚栄心が強い人には強い劣等感があるから。

自分が実際には優れていないことを知っているからこそ、他者の価値を落として(攻撃して)、自分が優れていることを強調しようとするのだ。

 人から認められようとする人は強い劣等感を持っているのである。

本当に優れている人であれば、誰かにそのことを認められる必要性を感じないし、自分が優れていることを誇示したりはしない。

 

虚栄心が強い人は、人からどう見られているかを気にしてしまうが、これは当然教育とも関連してくる。

教育に関して、訳者である岸見氏の注釈では、

親は子どもが間違った思い込みをすることがないよう気をつけなければなりません。試験でいい成績を取って嬉しそうにしていれば「嬉しそうだね」と声をかけてもいいですが、賞賛することは避ける必要があります。結果がよくなかったら声をかけられなくなりますし、また、次に頑張ればいいだけのことなのに、親の期待を裏切ったと思ってみたり、親が不用意に発する辱めの言葉に子どもが自分の人格まで貶められたと思い、落胆するかもしれないからです。勉強は真剣に取り組む必要がありますが、深刻になることはないことを教えたいです。

勉強は他者の期待を満たすためではなく、基本は自分のためだと書きましたが、だからといって自己満足すればいいというわけではありません。勉強することは決して親の期待を満たしたり、立身出世するためでもなく、他者に貢献するためのものであることを親自身がよく理解し、日頃からそのことを子どもに伝えたいのです。子どもがこのことをよく理解できれば、勉強はただ苦しいものではなく、勉強するための強い動機づけを得ることができるでしょう。(91ページ) 

 

さらに、貢献との関連で協力について、

競争しか知らない子どもは協力することはできません。しかし、協力ということを知っている人は、必要があれば競争することができます。どんなに成績が優秀でも、自分さえよければいいと思うような子どもになってほしくないのです。

そのような子どもに育てたくないのであれば、家庭の中で勉強さえしていればいいというような特権的な地位を子どもに与えないことが大切です。働いている親が家事もしているように、子どもも家事を分担しつつ、勉強もすればいいのです。家事を手伝うことで子どもは貢献感を持つことができますし、やがて今取り組んでいる勉強によっても貢献感を持てることを教えてほしいのです。自分のことしか考えない子どもは、勉強が苦しければすぐにやめてしまいます。(92ページ)  

 

その他、非攻撃的性格、原理主義者、卑屈、横柄、気分屋、不運な人などの性格や、怒りや悲しみ、嫌悪、不安などの情動について、さらに、兄弟の生まれた順番による性格のタイプ分けである家族付置などについても書かれているが、長くなるので今回は割愛(それぞれ面白い分析なので、折をみて記事にするかも)。 

 

まとめ

後半は引用を多くしたのでボリュームが出てしまったが、総論的な話に戻して考えてみる。

 

  • あるきっかけがあって、その際に自分でその問題に対する対処法(性格)を自分で選択した
  • 遺伝的にある特質があって、その特質を表現する方法(性格)を自分で選択した

 

個人心理学(アドラー心理学)が言っているのはだいたいこういうことだ。

遺伝や環境はあくまでもきっかけに過ぎないのであり、その性格を選択したのは本人なのである。

 このように書くと、自己責任と言われているようだが、そうではない。

自分で選択したものだから、選択し直すこともできる

ということが大事なのである。

 

もっとも、選択し直すのは大変である。新しい性格を選択すると、(人間関係の)課題に取り組む必要がでてくるし、未知の困難が待ち受けているかもしれない。

今の性格でいろいろ不都合が起こっていても、慣れ親しんだその性格によって起こる出来事は予測できる。

人は新しい環境を恐れてしまうのだ。

 

では、性格を選択し直すためには何が必要か。

勇気」である。

 

「貢献」と「勇気」、これは表裏一体と言っていい気がする。

貢献感を持つことができれば、勇気が湧いてくるし、勇気があれば、貢献感を持つことができる。

 

勇気に関する内容については、別の本(『勇気はいかに回復されるのか』)でふれられているので詳しくはまた今度紹介したい。

 

 

 

サドルのはなし ~フィジークのスパインコンセプトって?

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3年ほど前、サドル沼にはまっていた。

覚えているだけでも、その数、10種類。

もともと写真一番左のアリオネを4年ほど使っていたが、擦れによる肌の痛みが頻繁に生じていたので、別のものを探し始めたのが沼にはまったきっかけだった。

 

フィジークのスパインコンセプト

フィジークのスパインコンセプトは、前屈の際の身体の柔軟性に目安に、

  • 柔軟性高=スネーク・タイプ⇒アリオネ(フラット型)
  • 柔軟性低=ブル・タイプ⇒アリアンテ(ラウンド型)
  • 柔軟性中=カメレオン・タイプ⇒アンタレス(中間)

となっている。

フィジーク・スパインコンセプト

 

私がアリオネを使っていたのは、身体の柔軟性が高いからだった。

前屈であまり苦も無く手のひらが床につく。

そうなると、フィジークのスパインコンセプトによれば、一目瞭然。

スネーク・タイプということになり、サドルはアリオネになる。

 

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おそらく、ほとんどの人が左側の写真で直感的に自分のサドルを判断するだろう。

だが、これだけで判断するのは、まずいと思う。

 

柔軟性が高い=前傾が深い?

そもそも柔軟性が高いサイクリストが全員、前傾が深い、骨盤が立ったポジションで乗っているのか?

そうではないだろう。

まず、自転車のセッティングの問題がある。

例えば、長めのクランクを使用していれば、サドルは下げないといけないが、サドルを下げると、ハンドルの位置は相対的に高くなり、前傾は浅くなりがちだ。

これは、サイクリストの柔軟性が高くても低くても関係ない。

 

また、サイクリストの体幹の使い方も関係してくると思う。

いくら空力的に有利だからといって、前傾を深くしすぎると、体幹がつぶれてしまって、力強いペダリングはできない。

柔軟性が高くても、体幹の使い方によっては、それほど深くない前傾になるかもしれない。

 

ペーターサガンの場合

キャノンデール時代のサガンは、アリアンテを使っていた(今はスポンサーが変わってしまったので、違うサドル。最近はスペシャのROMIN?いずれにせよ、ラウンド型)。

柔軟性が一番低いブル・タイプのサドルだ。

 

しかし、次の動画によると…

 

恐るべき柔軟性と体幹

前屈をしてるわけではないが、まぁ、たぶん、スネーク・タイプだろう(笑)

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深い?浅い?

 

 まとめ

フィジークのスパインコンセプトの説明を鵜呑みにしてサドルを選んでしまうのは良くないと思う。

また、サドルには座面の形状以外にも、穴の有無、ノーズの長さなど、ほかにも考慮することがある。

メーカーの説明を鵜呑みにするのではなく、自転車のパーツのセッティング、自身の乗り方などから総合的に判断しないといけない。

また、どのサドルにもメリット・デメリットがあり、全てのシチュエーションに対応できるものはないはずだ。ある程度のトレードオフは受け容れなければならない。

 

ちなみに、現在の私のサドルは、アリアンテ。

このサドルに変えてから、擦れることもあまりなく、長距離を乗っても不快になることがほとんどない。

最近は、フィジークから適正なサドルを判断してくれるアプリも出ているのだが、計測したらやっぱりスネーク・タイプだった(笑)

 

スネーク・タイプのアリアンテ使いもいるということで参考になれば幸いだ。

 

 

 

 

 

 

文明は人間を幸福にしたのか ~『サピエンス全史』

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サピエンス全史

ユヴァル・ノア・ハラリ

 柴田裕之 訳

 

2014年に出版、2016年に日本語訳が出て、世界的ベストセラーになっている本書。

内容としては、「認知革命」、「農業革命」、「科学革命」が3本の柱となっている。

全体的に、これまでの認識を覆させられる内容で読み応えがあったが、今回の記事では、著者がこれら3つの革命について述べた後に投げかけている問い、「文明は人間を幸福にしたのか」について、紹介する。

 

 

 幸せの要因とは

 過去500年間には驚くべき革命が相次ぎ、人類は超人間的な力と実質的に無限のエネルギーを手に入れた。その結果、社会秩序は根底から変容したが、私たちは以前より幸せになったのだろうか

これまで歴史学者はこうした問いを投げかけることはあまりなかった。

よくある見方としては、人類の能力は歴史を通じて増大しており、悲惨な状況を改善したり、願望を満たしたりするために能力を活用するのだから、私たちは祖先より幸せに違いないというものだ。

これに対し、正反対の立場もある。

進化は、私たちの心身を狩猟採取生活に適合するように形作った。それにもかかわらず、まずは農業へ、次いで工業へ移行したせいで、人間は本来の性向や能力を発揮できず、そのために最も深い渇望をみたすこともできない不自然な生活を送らざるをえなくなっているというものである。

 さらに、これらを微妙に修正した立場もある。

科学革命までは、持てる力と幸福に明確な相関関係はなかったが、ここ数世紀の間に、近代医療の発展、暴力の激減や国家間の戦争の事実上の消滅、大規模な飢饉がほぼ一掃されたことから、幸福度は増したというものである。 

しかし、上記のいずれの考え方も単純化しすぎている。

より豊かで健康になれば、人々は幸せになるという、物質的要因の産物として幸福を論じてしまっているのだ。 

物質的な条件と同じように社会的、倫理的、精神的要因も、幸福に重大な影響を与えるはずだ。

 

幸福度をどのように測るか

では、物質的要因以外の幸福度をどのように測ればいいか。

この数十年、心理学者と生物学者は、何が人々を真に幸福にするかを科学的に解明するという困難な課題に取り組んでいる。

まず、何を計測するかだが、ここでは、幸福とは、たった今感じている快感であれ、自分の人生のあり方に対する長期にわたる満足感であれ、人が心の中で感じているものを意味する。

 「今の自分に満足している」「人生を送ることには大きな価値がある」「将来について楽観的だ」などに、どの程度賛同できるかを10段階で答えるよう被験者に求めるものだ。

このような調査方法で、本当に幸福が測れるかは何ともいえないが、まず、結論の一つは以下のようなものだ。

富は実際に幸福をもたらすが、それは一定の水準までで、そこを超えるとほとんど意味を持たなくなる

普通のサラリーマンがロト7に当選するのと、グローバルな大手自動車メーカーのCEOがロト7に当選するのでは、その人に与える影響が全くことなるのは容易に想像できるだろう。

一方、家族やコミュニティは、富や健康よりも幸福感に大きな影響を及ぼすようだ。

貧しい上に病に臥せっていても、愛情深い配偶者や家族などに恵まれた人は、貧しさが極度であったり、病が悪化する一方だったり、痛みが強かったりするのでなければ、孤独な億万長者より幸せだろう。

 この二つの結論から考えると、過去二世紀における物質的要因による状況改善は、家族やコミュニティの崩壊で相殺されている可能性さえある。

 

主観的な期待との関係

もっとも、この二つの結論より重要な発見がある。

それは、幸福は客観的な条件、富、健康、家族やコミュニティにさえも、それほど左右されず、むしろ、客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まるということだ。

人は、牛に引かせる荷車が欲しいと思っていて、それが手に入れば満足するが、フェラーリの新車が欲しかったのに、フィアットの中古車しか手に入らなかったら、自分は惨めだと感じる。

この期待が決定的に重要であるという発見は、幸福の歴史を理解するうえで広範な意味合いを持つ。

私たち現代人は、鎮静剤や鎮痛剤を必要に応じて自由に使えるものの、苦痛の軽減や快楽に対する期待があまりに膨らみ、不便さや不快感に対する耐性が弱いために、いつの時代の祖先よりも強い苦痛を感じているかもしれないのだ。

 

化学から見た幸福

ここまでは社会科学者たちの考える幸福だが、それに対し、生物学者の主張は衝撃的だ。

私たちの精神的世界は、進化の過程で形成された生化学的な仕組みによって支配されており、人間を幸せにするのは、体内に生じる快感であり、セロトニンドーパミンオキシトシンなどの生化学物質からなる複雑なシステムによって決定されるというのである。

宝くじに当たり、お金に反応して幸せを感じているのではなく、血流に乗って全身を駆け巡るさまざまなホルモンや電気信号に反応して幸せを感じているのだ。

すなわち、幸せ=快感ということである。

 

そして、人間の体内の生化学システムは、幸福(快感)の水準を比較的安定した状態に保つようプログラムされている。

例えるならば、酷暑になろうと吹雪がこようと室温を一定に保つ空調システムのようなものだ。室温は一時的に変化するかもしれないが、必ずもとの設定温度に戻る。

私たちは、結婚したり、新しい車を買ったり、住宅ローンを完済したら最高の気分が味わえるだろうと考えがちだが、そういったことでは、幸福度は増さないようだ。

ほんの束の間、生化学的状態が変動するだけで、体内のシステムはすぐに元の設定点に戻ってしまう。

 

また、設定温度は一人ひとり異なり、25℃の人がいれば、20℃の人もいる。

困難に見舞われても、比較的楽しそうにしている人もいれば、どれほど素晴らしい巡り合わせに恵まれても、いつも不機嫌な人もいる。これは、元々の設定なのだ。

 

こんな話を聞くと、とても偏った結論に聞こえてくるが、もちろん、生物学者も 心理学的要因や社会学的要因にも幸福に対する役割があることを認めている。

ここで重要なのは、幸福に対する生物学的なアプローチを認めると、歴史上のほとんどの出来事は私たちの幸福に何一つ影響してこなかったことになるということだ。

フランス革命を例にすれば、王を処刑し、農民たちに土地を分配し、人権を宣言し、貴族の特権を廃止しても、フランス人の生化学特性は変化しなかった。革命後に、フランス人のセロトニンの分泌量が増えたり、分泌時間が長くなったりはしなかったのだ。

 

人生の意義

幸せと快感は等しいという結論には当惑させられてしまうが、この定義に異議を唱える学者もいる。

ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの研究によれば、子育ては相当に不快な仕事であることが判明した。労働の大半は、おむつを替えたり、食器を洗ったり、かんしゃくをなだめたりすることが占めていて、苦役なのだ。

しかし、大多数の親は、子どもこそ自分の幸福の一番の源泉であると断言する。

これは何を意味するのか。

幸福とは不快な時間を快い時間が上回っていることではないのを立証しているのではないだろうか。幸せかどうかはむしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものと見なせるかどうかにかかっているということだ。

そして、この結論は近代を必ずしも高く評価しない。

中世の人々はたしかに悲惨な状況にあった。ところが、死後には永遠の至福が訪れると信じていたのならば、彼らは信仰を持たない現代人よりもずっと大きな意義と価値を、自らの人生に見出していたことになるのだ。

 

汝自身を知れ

幸福は快感と等しいという考え方、幸福が人生には意義があると感じることに基づくという考え方、両者には共通の前提がある。

それは、幸福とは、ある種の主観的感情であり、幸せの追求は特定の感情状態の追求になるということだ。

しかし、歴史上、宗教や哲学の多くは、幸福に対して異なる見解をとってきた。とくに興味深いのが仏教の立場だ。

 

仏教によれば、たいていの人は快い感情を幸福とし、不快な感情を苦痛と考えるという。そのため、多くの喜びを経験することを渇愛し、苦痛を避けるようになる。

だが、そこに問題がある。

私たちの感情は、海の波のように刻一刻と変化する、束の間の心の揺らぎにすぎない。5分前に喜びを感じていても、すぐに意気消沈してしまうこともある。 押し寄せては、ひいていくのだ。だから快い感情を得るためには、たえずそれを追い求めなければならない。

仏教によれば、苦しみの根源は苦痛や悲しみの感情ではない。苦しみの真の根源は、束の間の感情を果てしなく、空しく求め続けることなのだ。

この追求で、心が満たされることはない。喜びを経験しているときにさえ、心は満足できない。なぜなら心は、この感情がすぐに消えてしまうことを恐れると同時に、この感情が持続し、強まることを渇愛するからだ。

仏教で瞑想の修練を積むのは、この追求をやめ、苦しみから解放されるのが目的だ。

瞑想では、喜びや怒り、退屈、情欲など、あらゆる感情が現れては消えることを繰り返すが、特定の感情の追求をやめさえすれば、どんな感情もありのままに受け容れられるようになる。

そうして得られた安らぎはとても深い。

 

幸福が外部の条件とは無関係であるという点は、ブッダも現代の生物学も意見を同じくしている。

だが、ブッダの洞察で、より重要性が高く、深遠なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものだ。ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求もやめることだった。

 

仏教をはじめとする多くの伝統的な哲学や宗教では、幸せへのカギは真の自分を知る、自分が何者なのか、何であるのかを理解することだとされる。多くの人が、自分の感情や思考と自分自身を混同している。

「私は怒っている。これは私の怒りだ」と考える。

その結果、ある種の感情を避け、ある種の感情を追い求めることに人生を費やす。

感情は自分自身とは別のもので、特定の感情を執拗に追い求めても、不幸に囚われるだけであることに気づかない。

 

もしこれが事実ならば、幸福の歴史に関して私たちが理解していることのすべてが、じつは間違っている可能性もある。ひょっとすると、期待が満たされるかどうかや、快い感情を味わえるかどうかは、たいして重要ではないのかもしれない。最大の問題は、自分の真の姿を見抜けるかどうかだ。古代の狩猟採集民や中世の農民よりも、現代人のほうが真の自分を少しでもよく理解していることを示す証拠など存在するだろうか?(下巻 240ページ)

 

 

この議論について、著者は以下のように閉めくくっている。

 もっとも、学者たちが幸福の歴史を研究し始めたのは、ここ数年のことである。

幸福の歴史についての議論に終止符を打つのは時期尚早であり、異なる探求方法を多く見つけ出し、適切な問いを投げかけることが必要だ。

幸福の歴史について、何一つ言及してこなかったのは、人類の歴史理解にとって最大の欠落であるし、この欠落を埋める努力を始めるべきである。

 

 読み応え十分。歴史好き、哲学好きにはおススメ。